『糜爛』⑯

nao_ser
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 最近、廉の様子がおかしい。廉といえば辛党で、外食デートも三回に一度は中華屋に行くほどだった。廉はどちらかと言えば理数系で、なんなら体育会で、文芸や音楽のジャンルは蕁麻疹が出るほど苦手にしていた。そんな廉が、ロールケーキを食べてクラシックの音楽を聞いている。最近はもっぱらこんな感じで、私はすっきりしない気持ちを抱えていた。いったい、誰の影響なのかしら?と問い詰めてしまえば、廉は私を嫌いになってしまうような気がして、言い出せなかった。笑顔だけが取り柄の私が、ふとため息をついてしまうような日々を過ごしている。もうすぐ夢にまで見た結婚だというのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

「咲葵さん。珍しいですね、溜息なんて」

 阿由葉さんが自分から声をかけてくるなんて珍しいことに、私は嬉しくなって姿勢を正す。クールで色香のある社長秘書と、男らしいが少し天然な社長という組み合わせを密かに推してきた私としては、社長は話しかけやすいけれど、阿由葉さんは話しかけにくくて。向こうから声をかけられるとは思ってもみなかった。

「あ、おはようございます! 阿由葉さん!」

 阿由葉さんの涼やかなまなじりが、私を撫でるように視線が動く。こういう一つ一つの所作が、見習いたくなる程に色っぽい。あまり長く目を合わせていたら逃げられなくなりそうな求心力があって、その緊張がかえって気持ちよくなってしまう。セルフ吊り橋効果みたいな人だなと思う。

「ちょっとお手伝いをお願いしても?」

「もちろん、もちろんです!」

 資料室で阿由葉さんに頼まれた資料を探していく。無言も気まずいので、趣味はー?とか好きな食べ物はー?とかそんな雑談をぽつぽつ交わす。ピアノと読書ですーとか、紅茶が好きですーとか、私とは育ちが違うなぁと思う返答ばかりが来て、へらへら笑う。きっと育ちが良いんだろうな。一般的な家庭に生まれ、一般的な人生を送ってきて、程々に楽しいけれど、やっぱり特別感のある人は羨ましい。埃っぽい電灯はもんやりした光で、小さな資料室を包む。阿由葉さんはパイプ椅子を引き、小さなアルミテーブルに向かって座る。資料を見ながらiPadで何かを纏めている。それから思いついたように、こう言った。

「この前は有り難うございました。咲葵さんのお陰で、色々吹っ切れたような気がします」

「いえいえ! ほんと、私で良かったら話とか聞きますし!」 

「これからは自分らしく、我慢しないで生きていこうかと思って。僕、会社辞めるんです。まだ社長には引き止められてるんですけど」

 決めたことなんで、と言って伏し目がちだった阿由葉さんがゆっくりその瞼を持ち上げる。私を見つめ、捕まえたり、離したりして、かっちりした容姿とは裏腹な勝手気ままな仕草に心が翻弄される。長い指で資料を捲りながら呟く声が、やけに深く響いているような感覚に陥る。

「そういえば、ご結婚されるんですってね」

「はい!」

「どうです? 廉、キスとか下手でしょう」

 ぱらり、と紙の音がして静まる。埃っぽい靄が頭を支配して、何を言われているのか理解が出来なかった。ファイルの表紙を閉じる。ぐるりと首を回して背後にいる私を横目に見つめる。眼鏡の奥から阿由葉さんの冷たい光が溢れて、私は戸惑っていた。

「え? やだぁ、意外とそういう話お好きなんですか?」

 笑ってみても、彼は私を見つめたまま微動だにしない。小窓に差し込む桃色の夕日が、彼の白い頬を焼く。フィルターがかかって、上手く見えない。顔が引き攣ってしまう。話題を変えてしまおうか。いや、でも、そんな空気でもない。笑ってんじゃねぇよとでも言いたげな眼差しに身体が固まる。今までの人生、笑顔だけでなんとかやってきた私が、笑顔を封じられて窮地に立たされている。阿由葉さんは何も言わず腰を上げると、躙り寄ってきた。いつも体格の良い社長の隣りにいるから思ったことが無かったが、こうして見るとやはり彼も男性で、私を見下しているその姿に恐怖を覚えた。逃げられないし、相対するには敵が悪すぎる。爪の伸びた指先で眼鏡を外すと、私を刺す眼光は鋭く磨かれる。

「僕、伊達眼鏡なんですよ。本当は視力2.0あるんですけど、見えてないふりしている方が都合って良いじゃないですか」

「どういう意味ですか。どうしたんですか、阿由葉さん」

「自分の醜さとか、そんなのも。ねぇ、あなただって」

 睫毛すら触れそうな距離まで顔を近づけて、ウィンクをするみたいに目を細めて笑う。その姿は悪魔のようにで、私の単純な語彙力では表現しきれない邪気を孕んでいた。襲われる? 殺される? 飛躍し過ぎかもしれないけれど、震える身体の中に恐怖が渦巻いて身動きが取れない。阿由葉さんは、ポケットから金の何かを取り出した。輪っこの形をしていて、その穴の向こうから私を見ている。それは指輪だった。廉から貰ったのに失くしてしまって、怒られるのが怖いから黙っていた、それ。

「なんで、阿由葉さんが持ってるんですか」

「ちょっとは自分の頭で考えなよブス」

 呼吸することすらも許さないというような声音に、思わず息を止める。阿由葉さんが実際に手で私の口を覆っているわけではないが、この部屋の空気が、そしてずっと脳裏に浮かんでいた疑念が重苦しくなってきて、私は息が出来なかった。ピアノ、スイーツ、本、指輪。あの部屋には本当に私だけしかいなかっただろうか。思い返すと全てが疑わしくなってしまう。お気に入りのソファも廉と一緒に囲んだテーブルも、ベッドも、侵食されていく。

 肩を押されると、力の入らない身体はへなへなと座り込んでしまい、阿由葉さんは更に上から私を見下ろす。それから前屈みになり、私の耳元に氷のような赤い唇を近づける。

「お幸せに」

 ふらりと一歩下がって、怯える私を楽しそうに眺める阿由葉さんは舌舐めずりをした。喰われる。私の幸せが、彼の喰われる。もうすでにそれは始まってて、頭の悪い私はずっと気づいていなかった。気づいていたのかもしれないのに、見ないふりをしていた。阿由葉さんの言う通りだ。私から隠れて電話するのも、彼の寝ている間に来た通知にも、覗こうと思えば除けたけれど。それをしないことで、彼に嫌われる可能性を少しでも減らそうと必死だった。駄目だねって馬鹿だねって言って、満足そうな彼を見て安心していた。頭の悪い私は、端から何を言われようがそんな恋を本気でしていた。ようやく、手に入れようとしている幸せを、どうして。

 ジャケットを脱いで、薄ら笑みを浮かべたまま首を鳴らす。揺れる彼は、雨の日の水溜りを踏んで跳ねた雫のようだった。憂鬱な鈍色をしてた。絡みつく。甘ったるくて喉が乾く。ふしだらで、尻軽で、最低。最低。最低! 心の中いっぱいが、愛憎に塗れて炎症を起こす。離れない。離されても、私の頭から離れない。カルダモンの香り。彼は今日、廉と同じ香水をつけていた。