『糜爛』㉑

nao_ser
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『真紅』

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 ほんの少し部屋を空けているうちに、恋人がまた人を殺していた。君は天使みたいだと言われて喜ぶ人だった。だから作った、俺の作品で人を嬲り殺し、飛び散った血が俺の絵を汚していた。どれだけ俺が君を大切にしても、彼女は俺の作品一つも大切にしてくれない。俺のことも、そうだ。

「アイスが食べたいわ」

 彼女が言った。ああ、完全に壊れてやがる。知っていたんだけど。こんな人生になる筈ではなかった。彼女と出逢ってしまったことが大きな間違いだったのだろう。いつでも、やめられた関係性を続けたのは俺だ。俺は彼女のことを愛していて、けれど、その理由は思い出せない。

 石村春陽。三十六歳、男。元子役で画家。この街では、春海陽樹と名乗っている。本当は日村春樹という仮名をずっと使っていたのだけれど、変な名前なんですと自嘲する青年が見てられなくて、似たような形の名前を名乗ってしまった。俺はいつも、たったそれだけの理由で?と責められそうな行動原理に動かされている。名前なんてあんまり意味がない。何と名乗ったか忘れてしまうから、皆からは"ぱるたん"と呼んで貰って返事が出来るようにしている。浮気性の男が全彼女を姫と呼んで、呼び間違いをしないようにするアレの逆をやっている。

『きっと あなたのキスほど きらめくはずないもの』

 高校生のとき、クラス会で行ったカラオケルームで『木綿のハンカチーフ』を歌ったとき、彼女が俺に好きですと言った。泣きながら言ってくるもんだから、酷く戸惑ったのを覚えている。演技を齧っていたのもあって、何かに入り込みがちで、このときもおおよそ一般男子高校生よりは気持ちを込めて歌唱した記憶はあるが、歌い切ってもないタイミングで皆の前で告白されると流石に驚いてしまった。

 彼女の名前は河野弓月。普段は無口で暗い性格で、時々思いついたことをぱっと言っ空気を壊す癖がある。リストカットの痕を丸出しにして、誰彼構わず「私のこと好き?」と問い詰めることから、皆から妖怪と呼ばれていた。僕にも例外でなく、ある日、彼女が俺に「私のこと好き?」と聞いてきたことがあった。周りにいた友人たちはゲテモノでも見たような顔をして、無視して行こうぜと俺を庇うように背をぽんと叩く。だけど、俺は彼女を無視しなかった。彼女のかっぴらいた爛々と光る目を見つめた。俗に言う感受性が強いタイプだった俺は、色んな人の感情を受け、それを自分の物にしたりしてきて、他人よりそういうポケットが豊かであると自負している。彼女の狂気と呼ぶには純粋過ぎる自意識が、この社会において、多くの人にとって、誰にも受け入れ難い代物であることを感じた。興味が湧いたなんて格好つけたマッドサイエンティストみたいなことを言うつもりもなく、それは単なる優しさや情けでしかなかった。俺が愛のつもりで与えたものは、きっと毒でしか無かったのだ。

「うん。好きらて〜」

 けれど、彼女はそういう返しが来るとは思っていなかったようで、却って困らせてしまったようだった。周囲からは、お前何言ってんだよ、やめとけよ、と口々に言われた。半ば連行されるみたいに引っ張られて教室を出たのを覚えている。そのときは、それだけだった。好きにも色んな意味がいるし、極端な話、あながち嘘でもない。俺は皆のことが同じくらい好きだし、皆と同じくらいの好きしか持っていないから、彼女だけを嫌いってこともなかった。

 それでクラス会の日、彼女から言われた言葉は俺の「好き〜」に対する真のレスポンスだった。誰彼構わずかけていた「私のこと好き?」ではない、俺のことを考えて、俺に対して感情を煮詰めた言葉だった。

「石村くんのことが好きになりました。私の恋人になってください」

 石村、と呼ばれるのはとても珍しいことだった。あだ名で呼ばれるか、芸名の春木朝日と呼ばれるかで、本名で呼ぶ人なんていなかった。それだけで惚れちゃいましたなんてこともないのだけど、ふわっと春風に吹かれたみたいな感覚に陥った。その風にほんの1ミリ揺れて、俺の心が触れたのモノの名前は未だに知らないままで。

「良いよ!」

 ていうかさぁ、前に好きか聞いて来たがに、俺を好きになったのは今なん?と笑ってるのは俺だけだった。マイクを通してンハハと笑う声がルーム全体に響いていた。級友達は、俺がその場を凌ぐために適当を言ったと思っていたけれど、実際、俺と弓月はその日から恋人になった。

 恋人になったって、何が変わるかと言われれば難しいものがある。彼女が恋人になって欲しいと言ったので、恋人らしく振る舞ってあげるのが筋だと考え、それっぽいことを重ねていた。一緒にご飯を食べたり、放課後にデートをしたりした。彼女はしばらく、嬉しそうではなかった。幸の薄い顔に影を落とすばかりだった。あれ、何か間違えてしまっているようだ。俺には正解がわからないな。彼女を喜ばせたいとか、そんな気持ちはたくさんあるのに、ねぇ石村くんって嘘くさいわねと言う、彼女に返す言葉が無かった。

「石村くんがしたいことをして欲しいわ。歌いたい歌を歌って、描きたい絵を描いて」

「なにね、俺は弓月ちゃんが嬉しければ良いらすけ、したいことって言われても」

 そんなことを考えたこともなかった。つまり、そういうことなんだろう。

「アナタは人気者だから、そんな人が私のことを本当に好きなのか、私は不安になってしまうの。ねぇ、私のこと好きって言って?」

「好きらて、弓月ちゃん」

 魔法のように唱える度、彼女の笑顔は徐々に増えていった。関わってみると弓月は思っているよりまともではなかった。愛情表現がヘッタクソで、愛されたいという欲求が強すぎている。彼女が望むことは俺が俺の意思で死ぬほど彼女を愛すことであり、口先では常に綺麗事を並べ、後は俺がどう言おうと耳を貸さない。ネガティブが首をもたげているくせに、あまりにも振る舞いが身勝手。嫌われるのもわかる。でもね、それは彼女のよろしくない家庭環境がさせたものであって、切ることが許されない血縁という関係に人生を左右された者としては、彼女を狂ってるとか簡単な言葉で形容したくはない。空虚で中身のない俺は不安定な彼女を不安にさせてしまって、幸せにしてあげることは出来なかった。

 彼女が一度目を殺人を犯したのは三年の夏だった。美人で有名な女の子が俺のことを好いているとかなんとかで、浮気しないでねと釘を刺された矢先のことだった。美術部だった女の子は弓月に美術室ごと火をつけられ、焼死した。

 俺は弓月を匿った。両親がいない俺の部屋や、嘘が得意な俺のスキルは彼女を助けるには持ってこいだった。それから、何年が経っただろう。弓月をこの部屋に閉じ込めた瞬間から、閉じ込められていたのは俺も一緒で。彼女そのものみたいな真っ赤な炎を忘れることが出来ず、あれから火を使ったご飯が喉を通らなくなった。恋愛なんてのは所詮ごっこ遊びみたいなもんだ。ダラダラと引きずり合って、首を締め合って、ばっかみたい。でも一緒にいた。ずっといた。その事実が誰のどんな高説よりも重い。

「この人が悪いんだわ。急に入ってきて、だから殺した。きっと私からアナタを奪うつもりだったんだわ」

 今日はよく晴れた日だったから、きっと弓張り月も綺麗だろう。ねぇ、弓月。どうしてだろうか、俺は君のことが好きだよ。君は今も、信じてくれてないけれど。それなら、俺が君を殺そう。君を殺して、ぼくも死ぬ。それしかないと思うんだ。

「落ち着いてよ、弓月。俺は何処にもいかんとよ。ぼくは、弓月ちゃんことが好きらてば」

「春陽。私も愛してる。でもね、だから殺したのよ。わかって? ねぇ春陽。私、アイスが食べたいわ。一緒に食べようよ」

 継ぎ接ぎになってしまった言葉遣いも、もう弓月しか呼ばなくなったぼくの名前も、元々無かった自我全てを、捧げてきたつもりだよ。きみと同じように何にも出来ない人間のふりをして、きみと同じくらいに頭のおかしい人になった。好きで、愛しているから。あの日からずっと、この世界はぼくときみ、二人だけのものだったのに。

 随分昔、カラオケデートに行った日のこと。歌いたい歌を歌えば良いのよと言う割に、あれが聞きたいこれを歌ってときみは喧しかった。飽きたのか、あんなうるさい中で、きみは眠っていた。ぼくの膝の上で死んでるみたいに眠っていた。ぼくは端末をスクロールさせながらぼーっとしていたけれど、ふと目に入って初めて好きで曲を入れた。『ここでキスして』を、誰に聞かせるわけでもなく歌った。きみは起きなかったけれど、もうその時にはきみのことがちゃんと好きだったよ。パサパサの髪を撫で、爪の割れた手を握る。皮の剥けた唇に重ねるには少し躊躇ったりもした。

 雨が降った朝。遅刻症のきみと走って学校に向かっていたら、傘を持ったまま踊るようにきみが転けた。少女のスニーカーは水たまりを踏み、膝丈のスカートが花弁のように開き、跳ねた飛沫がアスファルトと曇天の狭間に光った、その刹那を何故だか忘れたことはない。濡れた地面に膝をついて、彼女に傘を差し出す。それからハンカチで彼女の脚の泥を払うぼくに、きみは言った。

「春陽って呼んで良い?」

「それ、今?」

 かんから笑えば、彼女も少しはにかんだ。ぼくは嬉しかった。彼女は泥に左手をつきながら右手でぼくのネクタイを掴んだ。体勢を崩したぼくは傘を投げ捨てるようにして彼女に顔を近づけた。しきりに雨が降る中、彼女の唇はやたらに赤かった。

 昔、ぼくが出た映画の劇伴は名前も知らないピアノの曲で、美しく繊細な旋律がとても印象に残っている。何か、ぼくの人生で大きな出来事がある度に、いつもそれは流れる。弓月とのキスも、そんなシーンの一つだった。

 ぼくは映画の中で、人を殺す少年を演じた。観客はそれを素晴らしい演技だった!と手放しに褒めちぎったけれど、ぼくにとってそれはとても褒められたものではなかった。ぼくは、本当に人を殺したと思う。あんなことを子供にさせた両親のことも、嬉しそうにしている周りのことも、理解が出来なくなってしまった。

『貴方は本当にそれで良いのですか』

 共演したきり、幼馴染のようになんだかんだ一緒に成長してきた宇良ちゃんはカウンターの向こうで静かに言った。コーヒーのドリップが時間を刻んでいた。宇良ちゃんは不思議な人で、彼の作るスイーツは現実を忘れさせてくれた。ぼくが最初から最後まで唯一信用した相手であり、そんな相手すらも、結局は棄ててしまった。

『大丈夫』

 ぼくは外へ出た。表情がバラバラに崩れて変になってるような気がして、フードを被った。アイスを選ぶ手も、頭も冷えているのに燃えているように、じくじぐと爛れている。文字が認識出来ず、何度もアイスのパッケージを読み直す。

「春海さん?」

 後ろからかけられた声に過剰に反応し、その相手が天羽瑠人であることにぼくは更に警戒心を強めた。ぼくは彼にぼくを重ね、尚且つ彼ほど凛とは出来ないぼくは、彼のことが少し嫌いだ。カゴいっぱいにコンビニスイーツを突っ込んでいる天羽くんは、僕の最上級作り笑いに怪訝そうな顔しつつ、それ以上は何も聞いてこない。大した関係性がないからってものあるだろうが、天羽くんは人の嘘に騙されてくれる人だってぼくは知っている。だから、少し嫌いだ。重厚感のある瞳、全身から漂うウェッティなオーラは、ぼくが画策しようと奔走しても揺るがない存在であることを示しているようだった。

「こんにちは」

「こんにちは〜」

 天羽くんは俺の顔を覗き込みながら、何か言っていた。俺はほとんど聞いていなかった。早く帰らなければ、弓月が何をしでかすかわからない。いや、もう既に色々やらかしているから、それを片付けなければならない。彼女を、殺さなければならない。

 電話が鳴った。天羽くんの声音から、相手が鮎ちゃんであることを察した。それから、鮎ちゃんがぼくの部屋にいることも。

「鮎美? 鮎美! どうした、大丈夫か」

 向こうの電話口に衝撃を受けたような音がして、ぷつりと切れた。携帯を耳からおろした天羽くんは酷く取り乱しているくせに、決して大きな声は出せず、手荒い真似もせず、ぼくの肩を優しく掴んだ。

「君の部屋で何が起きているか、教えてくれないか」

「鮎ちゃん、死んじゃうかも知れん」

 弓月が鮎ちゃんを嫌っていることはぼくが一番知っている。近所付き合いがないと却って怪しまれるからさ!とか言って、本当はぼくが彼と友達になりたかっただけだった。鮎ちゃんは弓月と似ているから、ぼくは結局、ああいう人達を好いてしまう質なんだと思う。人を殺そうって目を放っておけないし、ご飯を食べたがらない人にはご飯を食べさせて、その場しのぎに好きとか愛してるとかを与えてしまう。清くはないけれど、ぼくにとっては正義で、きっと天羽くんなら解ってくれると思う。

 ぼくはそれ以上は何も言えず、彼に家の鍵を渡した。彼はそのまま走り出した。ぼくはアイスを買ってから、歩いて家に向かった。足掻いたってぼくたちは、もうとっくに地獄に落ちている。

 ぼくは鮎ちゃんと他愛もない話をしながら、視界の端に映る薔薇の絵から目を瞑っていた。いつまでも続けられないことくらい解っていた。いつか、もう一輪の薔薇を描き足す日が来ることを知っていた。死体の傍ら、甘いアイスを食べ、にこにこと笑うきみは頭がおかしい。血のついた手で白い柄のスプーンを扱うぼくもおかしい。溶けて、溶けて、溶けて甘いアイス。だっちょもねぇ。しゃーしい。頭を内側から殴るみたいに繰り返す。鼻を啜れば、血の匂いがした。それが死体からするものなのか、ぼくからするものなのか判別がつかなかった。同じようなものなんだと思った。赤色が好きなきみのため、白で統一した食器類の中に、赤いマグカップや赤い薔薇の皿が混じっている。白で統一したこの部屋に、赤を連れ込む身勝手なきみは、もう救われはしないからいっそ。覚悟を決めるのが遅かった。やっぱり全部、ぼくの責任だって罪を引き受け、それを最後の愛の証明にさせてくれ。ぼくをそこまでさせる理由なんてなんだって良い。甘いものは好きだろうか。弓月は甘いものが大好きだった。だったら、もう、それで良いじゃんか。