『糜爛』⑱

nao_ser
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 日々泥のように眠り、朝も夜もどうでも良くなって、このまま死んでいくのかなぁと思う。ガラスの内側から出られない僕は、遠くに見える噎せ返るほどの空の青さに涙が出そうになるときがある。それでいて、また、人を傷つける。

 隣に眠る女を起こさないよう、指を取って彼女のスマホのロックを外した。アルバムの中から僕の写真を削除し、廉と彼女の楽しそうな写真をスクロールして一通り眺める。そうだな、お前はそんな風に笑う人だったな。僕は一度もそんな風にしてあげられなかった。僕だけが悪いとも思わない。彼奴も、此奴も、最後に選んだのは自分自身でしかないでしょう。って、逃れていたい。罪から。不幸を詰めた頭は重くて、起き上がるのすら億劫だな。そっと伏してスマホを置く。金を机の上に残し、乱雑に椅子にかけたカーディガンを羽織ると、僕は部屋を後にした。

 やけに静かな朝の街は、首を締められてるみたいで気に入らない。朝の匂い、光、そんなの全部に映るのが過去の記憶の断片で。歩いて帰るには遠い自宅への道、アスファルトの硬さとか、あのビルに掲示された巨大なコスメの広告ポスターとか。過るのは母の横顔。一度も僕に大好きと言ってくれなかった赤い唇。馬鹿な男たちに甘い言葉を囁く赤い唇。それから、彼女が奏でる音楽。思えば全て、僕はあなたになりたかっただけだ。

 昼になって僕は、廉を呼び出した。他人に対して随分酷いことをしておきながら、頭の端で「そういえば廉にクラシックのCDを貸しっぱなしにしているな」とか、くだらないことが過った自分が気持ち悪かった。退職が決まり、恐らくこの街からも出ていくだろうから、返してもらわないと困る。電話をかけると、向こうで彼が驚いてないふりをして過剰に低い声で受け答えするのがわかった。開口一番、「CD」とだけ切り出した僕に彼は更に素っ気なさを演出しながら喋る。

「あー、あるある。家にあるけど」

「返してください」

「え、じゃ、今から家来れば?」

 何も知らないで馬鹿みたい。どうして男って一度関係を持った相手はいつまでも自分のことが忘れられない筈だと思っているのだろう。もう、終わったんだと言ったってわからないなら。本当にわからせてやっても良いんだけどなと思い、今から行くと答えた。

 廉のマンションは会社の近くにある。虚栄を絵にしたみたいなそれなりのマンションのエントランスでインターフォンを押す。ガチャリと鍵を開ける音がして、僕はエレベーターに乗り込む。慣れきった動きを久々にやると、いつも此処に来るときは女郎になったような気持ちがして不快であったことすら思い出していた。

「よお」

 ドア開けた廉は眼鏡を押し上げる。口角を上げたま崩さないよう痙攣しかけているのが格好悪い。この期に及んでまだプライドを誇示したがるのか此奴は。溜息混じりにズカズカ中に入る。無駄にお洒落なインテリア。居心地の悪いモノトーンの配色。枯れた花が花瓶に刺さったままになっている。

「CD返してもらったら直ぐ帰りますから」

「お前、あんだけ部屋散らかってるのに何が無いとか把握してんだな」

「廉が持ってったのは母さんのCDなんで」

「なんて曲だっけ」

「フランツ・リストの『愛の夢 第3番』です。最後まで覚えませんでしたね」

 レコードの隙間に仕舞われていたCDを見つけ出し、鞄に入れる。さて、帰ろうかと立ち上がった瞬間、廉が僕の肩を掴んだ。体育会系育ちの力強さに虚を点かれ、体勢を崩す。覆い被さられるような形になり、僕は体重をかけられるのを阻止するために廉の脚に脚をかけて反抗を示すも、僕の力ではびくとも動かない。

「ちょっと、廉」

 馬鹿かよ。知っていたけれど、僕だって馬鹿だけれど。何にも知らないで。キスをせがんで暴れる駄犬のような男の歯が唇に当たって血が出た。唇を舐める。錆の味がして吐きそうだった。

「痛い」

 腹立つし、うざいし、イライラする。けれど人間じゃないような低俗なモノに成り下がってる姿からは一種の悦楽を感じられる。僕に対して向けられる、歪に膨らんだ劣情。僕は彼の首に触れる。

「初めて会ったときも、そういうことしてきたよな」

「あんたの女、あんたにそっくりだったよ」

 廉が目を開く。千切れそうな程に血走っている。廉のゴツゴツした大きな手が僕の髪を掴む。言いたいことはたくさんあるんだろうに、怒りが湧いて頭が働かない様子の彼は歯軋りをしながら、何度も何度も僕の頭を床に打ち付けた。脳まで響くような衝撃に視界が乱れて酔ってしまう。力が抜けて放してしまった手を、もう一度、手探りに這わす。爪を立てて引っ掻く。

「僕を殺すなら、あんたも死ね」

 投げ捨てるように僕の頭を開放する。ゆっくり立ち上がると、焦点が合わず吐き気がした。このまま此奴の家に吐いて行ってしまおうかと思ったが、ギリギリ良心が勝って留まった。廉もそうだろう。何を言ったって、あの日の僕だって、殺したいと思っても殺しはしない。そこまでは行けない。僕らは愚かだから。

「……お前、爪切った方が良いぞ」

 そう言うと、立ち上がってキッチンの方へ行ってしまった。僕まだ頭がぐらぐらしていて、直ぐには動き出せなかった。廉は水を勢いよく煽った。音を立ててコップを起き、項垂れている。

「本当は、安心してんじゃないですか。互いに後ろめたいことがあって。汚いのが自分だけじゃなくなって」

 廉はぎろりと僕を上目遣いに睨んだが、何も言い返しては来なかった。その代わり、萎れた花を花瓶から取り出して生ゴミに捨てて、別れの合図を送った。ばいばいも言えない彼の弱さとダサさが、僕達の関係を作ったきっかけだったように思う。出血した唇を指で拭い、僕も何も言わずに彼の部屋を出ていった。

 家に帰ると、いつの間にか眠っていたようだった。気がつくと夜になっていた。僕を起こしたチャイムに出ると、やってきたのは瑠人さんだった。瑠人さんは大きなマイバッグを手に提げていて、綺麗めのチェックのセットアップとは実にミスマッチである。僕は寝癖のついた前髪をかきあげて誤魔化しながら、察しの良い彼に悟られないようつんと顎を上げて応対する。

「来ちゃった」

「どうしたんですか」

「カレー、作り過ぎちゃう予定なんだけど。一緒に食べない?」

 口角を上げるのは不器用で、でも優しく目尻下げて笑う顔を見ると安心する。食欲なんて一つも無かったけれど、作ってくれようというその気持ちが嬉しくて、僕は彼を部屋にあげた。靴を脱ぎ、玄関に揃える。ついでに僕の靴も揃えて横に並べる。

 慣れた足つきでキッチンに向かい、持参したエプロンをつける。バッグからたっぷりの野菜を取り出し、パチパチと型抜きで人参を星やくまの形にする。僕はその近くをうろうろしながら、皿を出したり洗い物して良い子ぶる、悪癖を露呈する。

「そういえば、さっきスーパーで春海さんに会ったよ。引っ越すこと伝えてないんだね」

「最近会う機会なくて。陽樹さん、スマホ持ってないらしいんですよ。多分嘘だろうけど」

 野菜や肉を炒める音がこの部屋でするのは久々のことで、僕は子どものようにそれを覗き込む。

「いちいちそんな手間かけないで良いのに」

「可愛い方が良いじゃん」

 そうですねぇ、と生返事をしながら、料理をしている彼の手をじっと見ていた。所作が綺麗なのに、生活感がある。体温の高い、紫陽花の花。えろっとか思ってるのが本当にバレたくなくて、僕はせっせと手を動かしていた。瑠人さんは『アンパンマンたいそう』を口ずさみながら手際よくカレーを完成に近づけていく。僕は家庭の味というものを知らないが、強いてあげるとするならば、瑠人さんが作ってくれるカレーだと思う。カレールーを混ぜながら、『アンパンマンは君っさ〜』と楽しそうに歌っている。アンパンマンは見たことないけれど、瑠人さんがよく歌うからアンパンマンの曲をピアノで弾くことは出来る。けれど、僕が弾くのと彼が歌うのでは表現力が全く異なるから、僕にはこの歌を正しく奏でることは出来ないなと思うことがある。

「鮎美、もうそれ洗えてるよ?」

「あ、ごめん」

 ぼやぁと考えごとをしている内に、もう泡も残っていない包丁を流し続けていたらしいことを止めれられる。出しっぱなしにしていた水が勢いよくシンクにぶつかって跳ねている。慌てて蛇口を捻って締める。

「大丈夫?」

 急にしんとした部屋の中で、じっと顔を覗き込んで瑠人さんが問う。びしょびしょの手を幽霊みたいにしたまま、ぽつん、ぽつんと水滴が垂れる。

「何がです?」

「あのね、」

と言って、瑠人さんは腰に手をやりながらキッチンに寄り掛かる。瑠人さんは瞬きが少ない。

「俺は鮎美がお利口さんだとは思ってないよ」

 僕のくるんと跳ねた髪を指先でなぞりながら、瑠人さんが言う。カレーの鍋に膜が張る。香辛料の香りが執拗に鼻腔を掠める。

「だから、鮎美がどんな人であっても、何かあったら俺は絶対助けるからね」

 会社を辞めると告げてから、しばらくは保留にされていたものも、社内で広まる僕の噂はどんどん過剰になってしまっていた。ネットで調べれば直ぐに出てきてしまうから母の件を知っている人も増えて、瑠人さんも僕を此処に居させることが最善ではないと判断したようだった。いや、今の彼の言葉に含まれてる意図はきっと今更そんな話ではないことは理解している。そんなのは中学生の頃からクズな僕を見て見ぬふりをしながら見守ってきた彼にどれだけ良い子ぶってみたって、格好良いところばかりを見せられているのも思っていない。はっきり言うならば、僕が好きでもない男と遊んだり、怒らせて楽しんでいたり、と思ったら憎くて仕方なくなって不幸に陥れようと彼女を寝取ったりするような人であることを、この人は知っているということ。

 僕は彼の指に触れるくらいの強さで指を絡めて、微笑んで見せた。いつもなら誘惑の行為でしかないそれも、彼と僕との間ではまるで指切りげんまんのようにしかならない。赤い糸が結ばれることはない。手繰り寄せ、赤い唇でそれを咥えれはば染まってくれる、なんてこともない。ただ、甘えていたいだけ。

「大丈夫」

「うん。なら、良いんだ。カレー食べよっか」