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阿由葉鮎美はゲイらしい。という噂が社内に流れ始めたのは三日前のことだった。どうやら僕が男とホテルから出てくるところを見たという人が居たらしく、ここだけの話なんだけどぉ〜がどんどん広がったパターンだと思われる。別に隠しているつもりもなく、ひそひそ話されることも気にしないようにしていたが、瑠人さんに飛び火したら嫌だなとは思っていた。挨拶をすれば、わざとらしく高い声をして挨拶を返す女性達も、僕がまだ聞こえているくらいの距離で直ぐにゴシップに興じる。楽しそうで何よりだねと皮肉の一つでも言ってやりたくなる。彼女達の喜色を帯びた横面をぶん殴ってやりたくもなる。もちろんしないが。
僕は社内の休憩スペースで紙パックのアップルティーを飲みながら、集団でランチをしている人々を眺めていた。
「阿由葉さん!」
目線だけを上げて声をかけてきた人の方に見やると、それは中本咲葵だった。嫌悪感が顔に出ないよう努め、ストローを咥えたまま、なんですか?と問う。彼女はランチボックスが入った手提げを両手で持ったままもじもじしていて、それが余計に癇に障る。豊かな食生活を営める人間とは、まるっきり育った世界が違う。わざわざこちらにお越しくださらなくても結構なのに、そういう人達は自覚がない。自分のことが見えてないのだ。
「あの、私は良いと思います!」
「何の話ですか?」
「私、実は二人のこと結構推してましたし! BLとかも読むんで、偏見とかないっていうか」
「は?」
「とにかく、私は味方ですから!」
我慢ならぬ眉根が寄り、彼女を睨んでしまうのを止められなかった。彼女の少し傷んだ髪、フレンチネイルで整えられた指先、アイシャドウの偏光ラメとバサバサのまつ毛エクステ。彼女の顔がグロテスクに見えて僕は吐き気を催した。しかし、自分の世界で精一杯になってる頭の悪い彼女は、そんなことにも気づかず満足気にして去っていった。言い表すのも難しい真っ黒なヘドロのようなものが胸の奥につかえ、液体すらも飲み込めなくなる。腹部に溜まった色んなものが、逆流して喉を痛めつける。あ、吐いてしまう。僕は慌ててトイレに駆け込んだ。僕は、お前が良い気分になるために同性愛者なわけじゃないんだよ。お前が廉を好きなように、僕は人を好きになるし。お前と同じように好きな人と付き合いたいなとか考えて、本当は結婚だってしたくて、でもそれ全部無理だからさ。ここは現実だからさ。そんな創作物の話と僕は違う。僕の人生は僕のものだ。愛も、恋も、呪いすらも全部。お前なんかが踏み込んでくるな。お前なんかに、お前らなんかに僕がどんな気持ちで生きてきたか解るものか。感情が止めどなく溢れ、ほとんど胃液の内容物が便器の中にぼたぼた落ちる。酸っぱくて、苦くて、甘さの欠片もないそれが身体中に充満するような感覚に陥る。気持ち悪いのが治まらない。
ペットボトルの水で口をすすぐ。トイレの照明の下、顔色の悪い自分の形相が自分のものじゃないみたいに歪んでいた。もう、壊れてしまうような気がする。二十九年間は保った方なのかも知れないし。肺に酸素が入らない。穴だらけ、血管だらけで、僕はふらふらだ。立っているだけで精一杯だった。誰かにもたりかかりたかった。それは駄目なことだろうか。駄目なことなのだろうな。今まで遊んできた相手の顔も、大して覚えていなかったりするのだ。明るい筈の証明が仄暗く見えて、それと反するように醜い僕の顔は濃くなっていく。嫌な目つき。血の気のない頬と、てらてらとした唇のアンバランスなコントラストに脳が揺れる。携帯が鳴っているのに、身体が動かなくて出られない。真っ青な殺意を秘めている僕から零れ落ちるのは大きな粒をした涙で、白い洗面台を汚す。焼けた思考が頭をショートさせる。腐った牛乳のような。温くなった生クリームのような。幼い頃、一人で帰った夕暮れの通学路のような。なんだかそんなものが想起させられ、僕は鏡の向こうの僕に手を伸ばす。鏡面はひんやりとしていて、何故だが冷たく感じられた。映る僕は、僕でしかなくて。夢や理想なんてものはとっくに何処かに落としてしまっていたようだ。
「不細工だなぁ……」
僕の噂が流れて直ぐに、その話題を振られた廉が僕の悪口を言っていたのを聞いた。たまたま目が合ってしまって、一緒にいた同僚達は気まずそうな顔をしていた。後戻り出来なくなっていた廉は、ぎこちなく口角をあげたたまバキバキに目を見開いて「男好きになるとかマジキモいよなぁ〜」とはっきり言った。ぶっ殺してやろうかと思った。幼稚園のとき、僕はプリンセスになれないことを知った。好きだった男の子も、絵本の中の王子様も僕にキスはくれないのだと知った。二分の一成人式のとき、将来の夢を書きましょうと言われた。空欄で出したら先生に怒られたので、花屋と書いたらクラスメイトから馬鹿にされた。中学生のとき、男の子への片思いがバレて虐めが始まった。嫌われ者の教師と僕のBL漫画なんかを書かれてクラスの流行になった。高校生のとき、初めて春を売った。春を売るなんて綺麗な言葉で包みこまないで。そんなドラマチックなもんじゃない。別に苦しいもんでもない。楽しいもんでもない。よくわからない。ただ、ただ、何かを失ってそれは二度と戻らないものだと気づいて、少し泣いた。そんなことすら思い出して。もう、僕は全てが嫌になってしまっていた。罪、ならば、いっそ拭えないほどに。誰か僕に口紅を塗ってくれないか。出来たら、貴方のお嫁さんにしてくれないか。なんてさ、馬鹿じゃないの。