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夢を見ていた、のかもしれない。いや、現実か? 目を覚ますと、部屋の中は程々に整頓されており、冷蔵庫には作り置きのタッパーが残されていた。瑠人さんの厚みのある背中の上で寝てしまったのは本当だったが、酔ってどうしようもなくなっていたのは嘘だ。僕は酔って自我を失ったりはしない。酔ったふりをするのが得意なだけだ。鰊寧のドレス姿はとても綺麗で、僕は一生あれにはなれないのだと思うと辛かった。だから、そんなことをした。彼は気づいていたと思う。それでも、騙されてくれた。そういう人だって、解っているのにな。
中学生のとき、姉が瑠人さんを連れてきた。姉はそれまでも年上の男性を取っ替え引っ替えよく連れてきていたけれど、姉より年下の人を連れてくるのは初めてだった。お金持ちで頭の良い人しか入れないような大学に通っているらしいその人は、憮然としている僕に対しても優しかった。恵まれている人というのは、そういうものなのかと思った。当時、ほとんど学校に通っていなかった僕は、世間の何もかもから取り残されていて、勉強なんてものは全く出来やしなかった。見かねた姉が瑠人さんを家庭教師として雇ったらしく、彼は無償で僕に勉強を教えてくれた。姉に惚れて都合良く扱われるなんて愚かだなと思っていた。
『鮎美ってさぁ、凄く綺麗な名前だよね』
あるとき、瑠人さんがパラパラとテキストを捲りながらそんなことを言った。生まれてこの方、嫌われ者である僕は、女みたいな名前で気持ち悪いとばかり言われてきた。そんな名前を褒めてきたのが、嘘臭くて腹が立った。不機嫌を誇張して表す幼稚な僕のことなど、彼は気にする様子もなく話を授業に戻した。
今まで姉が連れてきた男はみんな下心が滲み出ているような人だったけれど、彼は何だかマイペースで考えていることが読めない節があった。時々、ぼやぁっと遠くを見ていることがあった。瑠人さんは空に目を向けていても名前負けしない、独特の綺麗さを持っている人だった。僕は綺麗なものが好きで、憎らしいほどに、愛していた。彼がいくら取り繕っていても、姉を前にしたとき、僅かに目線が揺らぐのを知っている。好きなんだろう。あんたも、僕と同じだろう。
壊してやろうと思っていた。ある日、部屋で二人きりのとき。僕は彼を組みしだいた。今思えば、僕より遥かに体格も姿勢も良かった彼が簡単に押し倒されるわけもなく、彼なりの優しさでわざと強い力を加えなかったのだろうけれど。ともかく、そのときは彼を上から見下ろして、さてどうやって駄目にしてやろうかと張り切っていた。それでも彼は、いつもと変わらない強くて優しい瞳を僕に向けるだけだった。無理矢理にでも迫ろうとする僕を軽く制止して、むしろ心配そうに眉を顰めていた。
『ストップしよう、鮎美くん。どうしたの?』
『何がです? 僕はただ、あんたが嫌いなだけで』
『嫌いな人にすることじゃないと思うのだけれど』
『うざいです。あんただって僕のこと姉に近づくための道具としか思ってないんでしょうに』
嫌いな人とすることじゃないとか、自分のことは大事にするべきだとか、そんな綺麗事は絵空事と同じだ。誰も大切にしてくれない僕のことを大切にしたって意味がない。好きじゃないからこそ、後腐れも何もなく、ただその場のノリとテンションだけで生きてけるんだろう。心臓の奥から込み上げてくる焦燥感に促されるまま、僕は彼に憎悪を吐き出していた。
『思ってないよ』
『だったら、僕のことどう思ってるか言ってみてくださいよ』
『……グラサージュショコラみたいな』
『知らねぇよ、なんだそれ』
『とにかく、誰彼構わず引っ掻くのは止めた方が良いよ。猫じゃないんだから』
『……猫?蛇だろ』
目つきの悪さと狡猾さ、狙った獲物は逃さない嫌な性格から、蛇野郎と言われ嫌われてきた僕を猫だなんて可愛いものに喩えて、また、神経を逆撫でしてくる。嘘をつくな。僕を、そんな風に思う人なんていない。真っ直ぐ見ないでくれ。疑えなくなる。どうせ嘘だ。信じて裏切られるのも面倒くさい。感情が押し寄せて、つまらなくなってしまった。このまま彼を蹂躙しようが、彼に勝つことは出来ないと察した。
『蛇? いや、猫だろ』
『そんな可愛いもんで喩えられるような人じゃないでしょう、僕は』
『怒られるかもしれないけれど、俺は君たちきょうだいのことを猫みたいに可愛いと思ってる』
平然と言ってのけて、瑠人さんの表情は変わらない。もしかして、本気で言っているのか。いや、これは本気で言っているな。なるほど、この人は確かに他の人とは違うようだ。急に全てが馬鹿らしくなって、僕は彼を離した。何事も無かったかのように、机に向かって座る。すると、彼も何事も無かったかのようにその斜め向かいくらいに座って、じゃあ今日は〜と授業を始めた。それからまた、家庭教師と生徒という関係で日々が続いた。劇的な出来事があったわけではない。僕の喜びを僕よりも喜んでくれて、僕の悲しみを僕よりも悲しんでくれて、そんな一瞬一瞬が胸の中に積み重なっていって、僕は瑠人さんのことが嫌いではなくなっていった。好きになっていった。
中学二年生の二月。所謂バレンタイン・デーというやつ。何を思ったか、僕はチョコレートを購入していた。瑠人さんが大の甘党であることは承知していたため、スイーツを見ればいつだって彼のことを思い出していた。こんなに街中がチョコレートチョコレート言っていれば、つい買ってしまうのも無理はないだろう。感謝の気持だとか言って渡せれば良いものを、なまじ好きだからこそ苦しくて、貰ったけど要らないからあげるわ等と嘘をついて彼に渡したのを覚えている。
『うん。ありがとう。大切に食べるね』
瑠人さんは常に強くて優しい。このときもそうで、僕は気づいていないふりをしていたけれど、彼は僕の嘘にも僕の気持ちにも気がついていた上で騙されてくれていたのだと思う。いつだって、そうだったと思う。
夢を見ていたのかもしれないという不安が、目を覚ます度に過る。好きな人の隣に置いてもらえていること。好きな人が優しい人であるということ。僕なんかが恋をしているということも。全部、瑠人さんの優しい嘘な気がする。それでも充分、充分な筈なのに。満足する気のない傲慢な僕がいて、酔ったふりをして好きだと言ってみたりする。瑠人さんは嘘に付き合ってくれて、『うん』とだけ答える。次の日には互いに、あのときみたいに、何も無かったってことにする。優しすぎて甘すぎて、どうにも駄目になってしまうんだ僕は。
彼が作ってくれたご飯をレンジで温め、朝ぼらけのテーブルで食す。食の細い僕に合わせた薄めの味付けの愛が染みるのは芯よりも傷で。矛盾を孕んだ身体は、幸せに近づけば近づくほどに、痛みに蝕まれて爛れていく。箸を落として、独り、泣いていた。