『糜爛』⑧

nao_ser
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「ここ? 姉さんがよく来てるってカフェ。『Urara』だっけ」

 ソーダフロートのアイスを突っつきながら、鰊寧はきょろきょろと店内を見渡していた。ピンクベージュの明るい髪色、丸くぎょろっとした目。どれもが僕とは異なる。彼女の血液は僕のそれより鮮やかな赤をしているのだろうと思う。

「うん、そう」

「悪いね、今日は。お忙しいだろうに呼び出して」

「いや、別に」

 鰊寧と僕はあまり仲が良くない。嫌い合っているわけでもないけれど。歳が近い血の繋がらない兄妹というのは中々複雑なものである。それに、僕はどうしても女性に対して歪な感情を抱いてしまう節がある。今も、鰊寧の耳に揺れるケイトスペードのピアスが僕を侮辱しているように思えてしまって、真っ直ぐ見ることが出来ない。そもそもそんな屁理屈が無くたって、運動も勉強も器用にこなし、平均的な年齢で好きな人と結婚まで持っていける力のある妹に対して平気でいられるわけもないのだ。

「ここってランチ系のもの無いの?」

「メニュー見れば良いじゃん」

「おすすめとかさ」

「知らないよ」

「えー? じゃ、マスターに聞くか。……すみませーん!!」

 こうやって、紳士淑女が集まりそうな静かなお洒落カフェで、大きな声を出してマスターを呼び出せる神経の太さにも引いてしまう。僕たちの後ろの席に座っていた男性が驚いてこちらを振り向いたので、僕は思わず軽く頭を下げた。

 鰊寧に呼び出されたマスターは、キツネ目を優しく細めた。ぱっつんの前髪と紅芋色のベストに蝶ネクタイ、個性的な出で立ちでありながら店の雰囲気には完全に馴染んでいる。お伽噺の登場人物みたいだなと思った。

「マスター、おすすめってあります?」

「そうですねぇ、バナナパンケーキと苺のショートケーキが人気ですね」

「シンプルなのが一番ですもんね。ところでマスター、この店の名前ってなんか意味あるんですか?」

「あぁ、私の名前なんです。わたくし、名字が的野。名前が宇良々と言いまして」

「へぇ〜、全然シンプルじゃないですね」

 余計なことを言ってケタケタ笑う姿も、引いてしまう。僕は気まずくて先に頂いていたレモンティーを啜っていた。鰊寧は大雑把で、勝手気ままなところがある。僕や姉が蛇みたいな奴と揶揄されることがある中で、鰊寧は鳥みたいな奴だと言われることがある。豚がいれば完璧だろうが、そんな話は詰まらないので止めておこう。良くも悪くも色んな意味で阿由葉家に豚っぽい人はいない。僕らは輪っかにもならない。歪な形のきょうだいなのである。結局、鰊寧は桜のゼリーを頼んでいた。おすすめを聞いておいて、おすすめ以外を頼む。ドン引きだ。

「そういや、ありがとね。結婚式来てくれるって」

「まあ、流石に親戚一人もいないのは可哀想だろ」

「それでも鮎美は来ないと思ってた」

 僕はストローを噛みながら、あけっぴろげに刺してくる鰊寧の言葉を聞き流している。その仕草すら小馬鹿にしたような顔で見ているのに癪に障る。

「あ、るっぴーも呼んだから」

 るっぴーとは鰊寧だけが呼ぶ瑠人さんのあだ名だ。僕たちきょうだいと瑠人さんとは長い付き合いになり、当然、鰊寧とも親しい。今度開かれる鰊寧の結婚式に呼ぶことは何もおかしな話ではないが、彼女が言わんとしていることはもっと性悪であるとわかっているから、僕はむっとしていた。鰊寧は僕が瑠人さんのことを好きだと知っているのだ。だから、結婚式に僕たちを出席させることで、僕をどきまぎさせて楽しもうとしているのだ。自分は好み通りの男性と懇ろになり、結婚まで成し遂げているから、高みの見物といったところだろうか。

 鰊寧はどろどろに溶けたアイスをかき混ぜながら、うだつの上がらない返事をする僕をつまんなそうに見つめる。

「あたしは良いと思うけどな。るっぴー格好良いし」

「何言ってんの。鰊寧のタイプじゃないでしょ」

 鰊寧の旦那さんである恵夢くんには一度会わせて貰ったことがあった。穏やかな雰囲気で、僕より一つ歳上だと聞いたときは驚いたほどに小柄で童顔な男の人だった。昔から鰊寧が連れて来る恋人は、保育士に向いてそうな雰囲気の人ばかりだった。瑠人さんを格好良いと形容するのは客観的に見て、という意味もあるだろうが、何より僕に同意してみせようという態とらしい仕草をしているだけだ。人の恋を誂いやがって。どういうつもりで良いと思うなんて言っているのだろう。男と男という時点で恋人になるハードルも高く、ましてや制度として結婚も出来ない国で、瑠人さんは僕の姉という僕からすれば敵いっこない相手に片思いをしているのだ。何が良いと思うのか。

「あたしは、鮎美にも幸せになってほしーの」

「適当なこと言うなよ」

「適当になんか言ってないし。鮎美も、姉さんも、もう幸せになって良いんだって」

「……それが、適当だって言ってんだよ」

 血の繋がらない鰊寧にはきっとわからない。誰だって本当は幸せになりたい。それでも、僕は人を不幸にして生きてきたから。幸せになんてなれないの。おかしなことを言ってるつもりはない。狂しくて、愛していて、それは愛されるよりも幾分か甘くて、バタフライピーティーの色をした僕の瞳は泡となって、それでも愛していて、甘くって、真っ赤に爛れていく心臓が生きていると叫ぶような。そんな恋をしている。僕はそれで良い。不幸の中でも、泥濘の中でも、恋をしているだけで満足だった。鰊寧にはわからないだろう。わからなくて良い。これは呪いだ。どろりと流れる重たい呪いだ。鰊寧は幸せになれば良い。

「お待たせいたしました、桜のゼリーでございます」

「かわいいー! ありがとうございまぁす!」

 今度、恵夢も連れてこよう。と嬉しそうに呟く妹の姿を見て、ほとんど諦めにも近い感情が湧いて、苛々するのも馬鹿らしくなっていた。こうして見ると、鰊寧は桜に似ている。鰊は春告魚と言うくらいだ。明るい方がよく似合う。

「一口いる?」

「いらない」

「そう」

 いつの間にか飲み干したレモンティーのグラスの中、角の取れた四角い氷がカランとぶつかる音が鳴った。