『糜爛』⑳

nao_ser
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僕の生活から陽樹さんが消えて、二週間が経った。二人の行方は、未だ不明ままである。

「あんたが遊んでた男」

「やめろよ、その言い方」

 妹に呼び出された僕は、溜息混じりにミルクティーを飲んでいた。鰊寧の顔はいつもより神妙だった。差し出されたスマートフォンは動画が再生されている。無線イヤフォンの片方を受け取った。動画は映像作品であった。少年が誕生日パーティーを行っている最中、親らしき大人に馬乗りになり、クリームのついた包丁で泣きながら滅多刺しにしているシーンが『月の光』を背景に流れている。少年は血に濡れた手で前髪を掻き分ける。汗が滴る。死体を横目にケーキのろうそくを吹き消す。まるで僕が廉を殺そうとしていたあの日のようで、僕の頭は混乱した。あの日。陽樹さんと出逢ったあの日。彼に出逢わなったら、僕は廉を殺していただろう。この少年と同じ目をしていただろう。泣き叫び、それでも心は酷く冷めきって、制御出来ない心を以て生まれてきたことを憎む。

「彼、春木朝日。本名、石村春陽」

 鰊寧が、四枚の写真を並べる。子役の頃の写真、中学生の頃のクラス写真、高校生の頃の写真と、その少年が描かれた絵の写真。順に見ると、全て同一の少年が成長して行っているのがわかる。個性のある顔ではないが、その静かな瞳が強烈に脳裏に焼き付く。

「そして、またの名を春海陽樹」

 恵夢くんは、この前の話から、プレミアになっている例の映画のビデオをもう一度見てみたという。そして、この少年を一度会っただけの陽樹さんと同じ人物なのではと思い立ったらしい。人の顔が覚えられない僕には、何がそう思わせたのかはわからなかった。春木朝陽の情報はほとんどないものも、両親が著名な監督と脚本家であったため、幼少期を特定することは容易かった。

 新潟県にある某カトリック系幼稚園のホームページには、石村春陽くん(5)の絵画が県の賞を受賞したなどと記載されていた。裏掲示板のようなサイトには、春木朝陽と同級生だったという書き込みもあった。石村春陽という名前だが、みんな春木朝陽と呼んでいた。彼の個人情報や隠し撮りの写真がそういう層に大金で売れるので、彼を嫌いな人はみんなやっていた。春木朝陽は日によって別人のようで気持ちが悪い。成績が良く、教科書を暗記している。女の子にモテる。明るくはないが、みんなに優しい。中学に上がる際、神奈川へ引っ越してしまった。と書かれていた。

 都市伝説のような存在になっていた春木朝日には、それこそ都市伝説のように妙な噂が囁かれていた。検索エンジンで春木朝陽と入力すれば、サジェストには『殺人』『行方不明』と出る。春木朝陽は同級生を二人殺している。二十年前、彼の通っていた高校で女子高生が焼死体で発見された。その同級生の女子生徒と男子生徒が行方不明になったま、今も見つかっていないらしい。

「じゃあ、あの女は」

「この女子高生かもね」

 行方不明と処理された二人は何年もの間、どうやって生きてきたのだろう。考え出すと、途方に暮れてしまう。真実は何も見えてこないが、あの二人の間にあった感情はきっと誰にも想像なんて出来ない。

「……それで、この絵は?」

 かつて無名だった、石村春陽という少年が描いた自画像。物心ついたときには売り物になってしまっていた自らを、自らが売り物とする。柔らかで神秘的な色使いとは対照的に、自傷行為のような血の匂いがこびりついた少年の絵を見ていると、動悸がした。彼が人物画を描いたのはこれが最後で、今は匿名で花や天使をモチーフにした作品を作っているという。少し前まで福岡のオークションに頻繁に出されていたが、最近は拠点を東京に移したというのが審美眼を持つ人達の共通認識らしかった。あっちこっちに移動しながら、キメラのように名前を抱えて生きてきたのだろう。絵の少年と、春木朝日と、春海陽樹。僕が知っている断片的な陽樹さんと、鰊寧から話される情報は少しずつ擦れて一致していく。この絵の少年は、陽樹さんと比べると幾分大人しそうにも見えるが、それでも似ていると思った。瑠人さんがシュガーボンボンみたいなーと言っていた、あの雰囲気が同じだった。ころんとしていて、甘い。宝石のようで、だからこそ、砕けてしまったのだろう。

「春海陽樹なんていなかったってこと」

 退職が決まり、有給消化中だったのもあって、この数日は本当に生きていないみたいに生きていた。そこであんなことが起き、最後の糸が切れてしまった僕は、もう動くことすらままならなかった。上手く地面が踏めない。溺れているみたいに身体が浮いてしまって、息もままならない。今更、憂鬱に気取っている僕は僕が嫌いだ。何を。ずっとそうだったではないか。清流で泳ぐよりも、淀みに沈む方が心地良いことを知っていたのに。恋をしたり、友達とご飯を食べたり、当たり前のことを当たり前にして。そのくせ、人を乱して、エゴイスティックに愛を翻弄して、幸せを奪って。どちらも同じくらい愉しいと思っていた。

 あの部屋で死んでいた男は、どうやら僕のストーカーらしかった。名前は安曇祥平。僕はその顔を覚えていなかった。名前を聞けば何年か前に一度遊んだことがあったかもしれない、くらいの記憶が蘇ったけれど、そのくらいだ。恵夢くんが言うには、『Urara』でもよく見かけた男だったらしい。宅配便を届けに来たり、会社に悪戯電話をかけていたのもその人の仕業で、目的は不明ながら、陽樹さんの部屋に侵入したところを女と出くわし、あの惨劇なったのではないかと警官が話していた。

 僕が陽樹さんと関わりを持ったから。僕は男の顔すら覚えていなかったのに。陽樹さんが過去に罪を犯していようと、静かに暮らしていた今に、もう一度傷を与えたのは僕だ。

 鬱蒼とした前髪の下、歯を磨いている唇は赤い。二面性なんて誰にでもある。僕だってそうだ。それは表裏ではなく、地続きのものだ。朝と夜とか。涙と河川のように。不可視の境目で自分の輪郭を作って生きている。僕だって、陽樹さんに見せてない面がたくさんあった。汚らわしい本性を隠し、見せたい自分を取り繕う。そんなのは誰でもやっている。この唇でたくさんの人を不幸の側に引き摺り落としてきた。嘘、全部、嘘だらけ。ファンタジー。フェイク。お伽噺。真実なのは愛だけ。だからその愛のせいで人は簡単に駄目になってしまう。この部屋のように入り乱れていて足場もない。どうせいつかは死ぬのです。

 マットのずれたソファに横たわり、目を瞑る。冷たく鋭い頭痛のせいで、眠りに落ちることもないまま、数時間が経つ。時折現実を直視するのは辛いものがあるね。伊達眼鏡の下から空を見ている。あの日、彼が僕に優しくしてくれた理由は無かった。甘いものは好き?と笑う顔を覚えている。きっと僕より彼の方が甘いものが好きだったのだろう。暇潰しには丁度良い日々だった。本当はもう取り返しのつかないくらいに僕はクズになっていたし。

「もういいかな」

 人を好きになればなるほどに、僕は美しく汚れていく。それしか知らないんだ。死にたい、けれど愛する人に助けられて、嬉しい。とても生きていることを実感したり、愛されてるって欲しかった感覚がそんなときに限って包んでくれる。許してくれ。

 天井に吐き出した言葉は返っては来ない。夜の静けさは湿度の高い重さになって僕を覆う。彼と囲んだ食事が今日まで僕を生かしてくれたことには何の変わりもない。僕を殺す相手が陽樹さんじゃなくて良かったと思う。僕は自分が思っているよりも、彼のことを好いていたのだろう。聞く勇気の無かった僕には、彼のことを知る権利なんてないのだ。嫌えそうにもないから、このままさようならをしたい。夢も現実もあやふやな狭間に落ちて、眠り続けていられれば楽なのに。