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「るっぴー、ごめんねぇ」
「全然。今日は呼んでくれてありがとう、鰊寧ちゃん」
親戚の子供みたいな存在が結婚式をあげることになり、そこに呼んでもらえたということが嬉しくて、俺は可能な限り頬をあげる。ぼやぁとするのが悪い癖で、顔で感情を表現するのは苦手だが、嬉しいということは伝えたいので頑張って微笑む。『カノン』を弾く役目を果たした後、珍しくぐでんぐでんになっている鮎美に肩を貸しながら、きれいになった少女の姿を目に焼き付け、焼き付けすぎて目頭が熱くなる。明るい白を基調にし、ピンクの華で彩られた豪華な式場は桃のレアチーズケーキのような爽やかな甘さで満たされている。
「結婚おめでとう。末永くお幸せにね」
「はーい、 るっぴーも幸せになるんだよ」
「俺はもう充分。今日めーっちゃ幸せだった」
じゃあまたね、と挨拶を交わし、俺は鮎美を抱えてタクシーに乗り込んだ。鮎美は嗜む程度にしか酒を飲まず、多少酔ったとしても、何ていうか"すん"としている。"しら"っともしている。そういう感じ。クールビューティを絵に描いたような子で、青白い顔をしている。それが、今は少し血色を取り戻した赤ちゃんみたいな頬になっている。歯切れよく論が立つ口も、今はむにむにと言うだけだ。
タクシーの窓から見る夜空には自分と鮎美の顔が反射して映っていて、大人になったなぁと感傷に浸る。思えば、もう随分と長い付き合いだ。初めて会ったのは俺が大学生の頃で、鮎美は中学生だった。今にも深い暗闇に落ちていってしまいそうな少年の手を、俺なりに繋ぎ止めて来た。正解なのかは今もわからないけれど、よくここまで大きくなってくれたなと思う。それだけでも充分だ。
座っていた姿勢がずるりと力が抜け、鮎美は俺肩に頭を寄りかける。ほんのり花のような香りがする。鮎美はその切れ長の目を薄っすら開くと、俺を見上げながら、またむにむにと何か言っている。そのむにとむにの間に本当に言いたいことを捩じ込んで、聡明な彼は本音を濁す。
「瑠人さん」
「うん?」
「好きですよ」
「うん。わかってる」
だから、俺も聞かなかった振りをする。そうやって、大人になってきた。何もかも、というわけにはいかないから。
「わかってることなんてわかってますけど」
そう言って、鮎美はもう一度目を閉じた。静かな寝息が夜を駆け抜けていく。
タクシーは鮎美の住むマンションの前に到着した。お金を払い、鮎美をおぶって三階へ向かう。鮎美の骨ばった体躯はとても軽くて、やはり多少うるさく言ってでもご飯を食べさせた方が良いなと思った。鮎美の部屋の前に着く。片手で彼を抱えながら、もう片方の手で彼の鞄を探る。ポーチ類で仕分けられている鞄の中身は、一見整理されているように見えるが、ポーチの中身は全て押し込まれているだけなので、中々鍵が見つからない。部屋の前で散々鍵を探していると、階段を昇ってきた男性が俺を見ていることに気がついた。怪しまれている。そりゃあ、そうだ。
「私、怪しいものじゃないので。鮎美___この方、阿由葉さんの知人で」
何か聞かれる前から言い訳を並べ、表情に出ないながら俺は動揺していた。男性は小柄でなんというか丸っこく、シュガーボンボンのような雰囲気の人だった。よく様子をうかがってみれば、特別怪訝な顔もしていない。
「疑ってないすよ。鮎ちゃんがそんな心許してるってことは、そういうことなんやろうなって」
「鮎ちゃん? 鮎美と知り合いなんですか?」
「そんな感じです。どっちかというと友達かな」
男性は斜め右上に目をやりながら、白いパーカーのポッケに右手を突っ込み、左手に下げたエコバッグを揺らしていた。それから、薄い唇をふっと上げて笑んだ。今までの鮎美の交友関係(そもそも鮎美に交友関係などほとんどないのだが)にはいないタイプで、いつの間にか俺の方が相手を警戒していた。こんな健やかな笑顔の人が鮎美と友人になれるだろうか。たしかに、つい最近、鮎美から友達が出来そうだという話は聞いていたけれど。俺がそんなことを考えている間にも、背に乗っかった鮎美は大人しく眠り続けている。
「失礼ですが、どういった経緯で?」
「んー、まあ、なんやかんやあって」
「なんやかんや?」
「すったもんだで」
「なるほどです」
何も成る程ではないのだけれど、濁すということは説明したくないということだろう。いくら鮎美とは言えど、あれこれプライベートを詮索するのは人として尊重していないことになるので、それはしたくない。するべきではない。それに、おおよその察しはつく。干渉するつもりもないが、知っていることは多いのだ。
男性は、俺の中腰の姿勢を一瞥すると、手を貸してくれた。オーバーサイズ気味の袖から、ふっくらとしていて柔らかく温かい手が伸びる。俺から鮎美を受け取ると、軽っ!と言ってケラケラ笑っていた。
「鍵が見つからないんですよ」
「鮎ちゃんて意外と大雑把っすよね」
「しっかりはしてないですね。こんなにしっかりしてないのに、仕事のときは一生懸命しっかりしてくれてて」
「あ、もしかして君が社長さん?」
そうだと答えるよりも前に、鮎ちゃんが言ってたんすよ〜と、跳ねるような調子で言うのが外廊下のコンクリに響く。しかしこうして接近して見ると、男性はポップな雰囲気よりも幾分か年輪を感じる質感をしていて、そんなに歳が変わらないかもなと思った。笑ったときの目尻の皺とか、笑うとぽわぽわ動く髪の毛の細さとか。
そうこうしているうちに、メガネケースの中から鍵が見つかった。そのまま鮎美を任せて一緒に部屋に入ると、相変わらず部屋の中は散らかっていて、思わず笑ってしまった。中学生の頃から直らない。
とにかく新聞が積まれた廊下を進み、リビングルームに入る。ソファにはそこで寝た形跡があり、はいだままの青い毛布が半分落ちていた。ラグから本棚にかけて本が積み重ねられている。干しっぱなしの洗濯物。スーツ類だけはクリーニングに出したらしい状態のまま掛けてあり、ローテブルの上には呑んだあとの酒の缶が出しっぱなしになっている。
「社長さん、いっつも鮎ちゃんのお世話してるんすか」
男は鮎美をゆっくりとソファの上に下ろすと、ゴミを片付けている俺にそう聞いた。お世話、と言われれば肯定しづらいものがある。あやふやに返事をしながら、写真立ての埃を取る。鮎美が中学のときに借り人競争で一位になった記念で撮った写真だった。懐かしい。元陸上部の人というお題で、元剣道部の俺が咄嗟に出ていってしまった、そんな思い出の一枚。足の遅い鮎美を半ば引きずってまで一位にさせてあげたかったのを思い出す。思い出に耽り、恐らく一人で綻んでいたのを見ていたらしい彼が、不意に目から光を消した。
「お二人、付き合ってるんですか?」
「え?」
「違いますよね。でも、鮎ちゃんは社長さんのこと好きですよね」
何がそうさせたのかはわからないが、彼が突然そんなことを言い出した。鮎美の傍らに片膝を立てて座っていた彼が、俺の動きを目で追う。
「社長さん」
「あの、その社長さん呼び止めませんか」
写真立てを元に戻すと、ほとんど使われていないキッチンの方へ回り込む。冷蔵庫には期限ギリギリの食材が僅かに残っていたので、取り出してさっさと出来る料理を作ることにした。とんとんとまな板の音で、話を変えてしまいたかった。
「だって名前知らんもん」
キッチンの向かいから、男が口を尖らして言った。
「そっか、そうでした。ごめんなさい。ぼくは天羽瑠人と言います」
「瑠人ね。るっぴーくんって呼ぶね。あ、俺は春海陽樹です。ぱるたんって呼んでね」
「はるたんじゃなくて、ぱるたんなんですね」
半濁音ついたほうが可愛くて良いですもんね。と続けると、春海さんはさもおかしそうに笑って、野菜を切っている俺をちらっと見た。何が面白いのかわからないので、俺は小首を傾げて視線をそのまま返した。
「普通、今この空気でそげなこと気にせんよ。るっぴーくんて、喋んなかったら格好良いって言われるタイプっぽいすよね」
「よく言われます」
「実際、モテてきた?」
「いや、全然。俺童貞です」
「ははっ、えぇー? 聞いとらんばい、そげなこと。初対面の人に言うことじゃなかろうもん」
キッチンのカウンターに肘をつき、ゆらゆら揺れながら春海さんが笑う。切る音、茹でる音が、明るい振りをして迫っている軋む空気に消えていく。
「るっぴーくんて面白い人やね」
「春海さんはよく笑いますね」
「ねぇ、るっぴーくんは鮎ちゃんのことどう思ってるん?」
「グラサージュショコラみたいなだなって思ってます」
言いながら、苛々している自分が嫌になってしまう。相手に悪意があろうが何だろうが、真正面から受け止めて真っ直ぐ思いを伝えることが大事だと思う。それが自分の考えを、より自分の中で認める行為だと思うから。
春海さんは前髪を邪魔くさそうにしながらも、その隙間でじっと俺の様子を見ていた。試そうとか、おちょくろうとか、意図もトリガーも全くわかんないけれど譲れないから答えるしかない。
「いやいや、わからんわ。どういう意味すか」
「好きですけど、それ以上に大切にしたくて。きっと鮎美が俺に思ってくれている好きとは違うんです」
「ズルくない?」
「ずるいですよ。でも、良いの。ずるい人間になってでも、守るべきことがあるから」
春海さんは俺の言葉を納得したのか気に入らなかったのか、頭の中で咀嚼を終えると、じゃ!とだけ言って帰ってしまった。
スープに突っ込んだキャベツは崩れるほどに柔らかくなり、かぼちゃのプリンが冷蔵庫で冷えている間、自分の言ったことを逡巡していた。俺が鮎美の近くにいることが、鮎美を苦しませていることもわかっている。鯉都さんにお願いされてしまったことがきっかけになっているとも、不誠実だなと思う。今日の鰊寧ちゃんの結婚式で、鮎美は何を思っただろう。それでも気付かない振りをして、バカの振りをして、鮎美の隣りにいるからには、たとえ彼女に頼まれていなかったとしても鮎美のことを俺は守るのだと思う。そういう形の、「大切」がある。
作り終えた料理の温める方法と保存期間をメモして、テーブルの上に残す。ソファに寝ていた鮎美はもぞもぞと動いて、ほんの少し顔を上げた。きりっとした切れ長の三白眼が虚ろに一瞬だけ俺を捉える。
「……瑠人さん」
「おやすみ」
艶と硬さのある黒髪をぽんと撫でれば、酒の熱に浮かされた鮎美の瞳は潤んで、もう一度目を瞑った拍子に一滴溢れ落ちた。拭っては、いけないだろう。ただ俺は、鮎美が悪夢を見ることなく、嫌でも来てしまう明日がほんの少しでも良いものでありますようにと願うことをし続けてきた。可愛いものも甘いものも好きだけれど、それだけでは生きていけない大人だから、せめて、鮎美の痛いところ全部に絆創膏を貼ってあげられたらと思うのだ。