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『黎明』
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生きてるだけで、多分、罪。僕は二十九歳の誕生日を冷たいフローリングの上で迎えていた。潰れた小さなホールケーキと切り分けられた二片、倒れたダイニングチェア、割れた花瓶と折れた花。手で掻き集めながら、下を向くと鼻血が垂れる。殴られた衝撃で未だ頭はくらくらとしている。三十路手前の男とは言えど、僕の体はやや骨張った細い線をしており、筋肉質な奴から振るわれた暴力には参る外なかった。
「ケーキくらい食ってけよ。あんたが買ってきたんだろうが」
血の味がする口では、もう、何も食べる気なんてしなかった。ましてや暴力を振るってきた相手、便宜上恋人と呼んでいた相手でもある藤島廉が買ってきた食事など食べたくなかった。廉からはいつだって女の匂いがした。僕は廉のことが好きだったわけではない。廉が僕ではない人を好きなように、僕にも好きな人がいて、互いにそんなことは承知の上であった。けれど、彼奴が大切にしないものを大切にすることには、もううんざりだった。廉が作る料理、廉が貰ってきた花、そして僕自身のこと。大切にすればするほど、こうやって平気で壊す奴のことが許せなかった。
よたよたと立ち上がり、洗面所の電気の下で、ボロボロになった自分の姿をじっと眺めていた。乱れた髪、泣き腫らした目、真っ赤な鼻血。余りにも間抜けだ。虚しくて苦しくて、慟哭にも似た強い衝動が不穏な静けさで胸から込み上げる。握った指の節で血を拭うと、まるで紅を引いたかのように唇が濡れ、気がつけば、口角を震わしながら笑っていた。
「不細工だな」
綺麗になりたい。あるときから、僕の心はそれ一つに因われている。肥大化した自己否定と、生温い脳漿に、アンコントロールなナリをした心体を持ち、何処を歩いているのかもわからないような人生だった。流れる血液の赤は他の人とは違う赤で、目立って鮮烈である。何より醜い、罪の色。綺麗になりたかった。見た目も中身も。綺麗になって本当は、大好きな人に好きと伝えてみたかった。掌で鼻血を拭くと、それは唇にべたりひっついた。どうせなら、ルージュの似合うヒトになれたら良かったのだが、赤い唇は妄りがましく、ドレッサーに向き合う母の横顔によく似ていた。誰かを不幸にする度に美しさを増す女と同じ腐臭がする。幸せになんてなれるわけがなかったのに。穴ばかり開いた歪なハートでは生きることすらままならないから、どうにかして埋めたくて手を伸ばした毒薬みたいなものを、愛だって信じていたかったのだ。愚かさは増すばかりだ。
「ねぇ、どうするつもりだよ」
死ぬか、殺すか、愛し合うか。考えることが何にもならないことは、頭の鈍痛を以て知っている。つまり、あってないような答えは、己の目の奥に既に潜んでいる。
汚れたシャツを脱ぎ、その辺にあったパーカーに着替える。フードを深く被り、生クリームに塗れた包丁を手に取った。走り出していた。
重たいドアの先、靴も履かずに出た外廊下の冷たさにすら気がつかないまま、きょろきょろと血走った目で廉が行きそうな方向に思考を巡らせていた。尚もぼたぼたと鼻血は足元に落ち、その度に頭の鈍痛は酷くなる。奥歯をがちがち鳴らし、激昂した殺意を研ぎ澄ませば、視界はずんと暗くなる。立っているのがやっとな程でも、包丁を握る手は震えたまま硬くなる。
溺れている。思えば、昔から。清流で泳ぐよりも、澱みに沈む方が心地が良かった。現実の今晩は、息が出来ない。喘いで、喘いでも、届くことなく消える泡となる。殺してやりたい。けれど、どこまで行っても幸せになんてなれない。行く場所なんてないでしょう。濃青の夜空に溺れて、死ぬの。
昏昏とした真っ青な意識、その外からふっとと誰かの声がして、掌から包丁が落下した。カンカランという音が響いて、我に返る。声をした方を慌てて振り向くと、そこには素朴な顔立ちで古びたスニーカーを履いた男が熨斗のついたゴミ袋を持って立っていた。
「大丈夫っすか」
「だ、あ、」
男の問いに、大丈夫と取り繕う声を出せない。カッとなって忘れていた痛みがぶり返し、全身がズキズキと痛んだ。部屋に戻ろうと歩き出した足ががくんと折れ、その場に這いつくばってしまった。
駆け寄った男の目に、転がった包丁が映るのがわかった。
「あぁ……」
息を漏らした彼の目は少し泳いたが、すぐに微笑んで見せ、それから膝をつき、僕の顔を覗き込んだ。ロンTの袖を伸ばして、僕の鼻血を拭った。
「あのさぁ、美味しいケーキがあるんですよ。一緒に食べない?」
虚をつかれ、ぱくぱくと口を動かす。言いたいことはたくさんあったのだ。それよりも先に、言葉に出来ない感情に襲われ、泣いていた。
食べ損ねたケーキ。そうだ、今日は誕生日だった。遠くなる自我の中で幼き日のことを思い出していた。生まれてきて良かったのか、その確証は今もないけれど。身動き一つ取れない、ぐずぐずになっている僕を男は両腕に抱きとめらる。彼からはやけに甘い匂いがした。