『糜爛』②

nao_ser
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 生死のラインの上でぼんやり佇んでいた身体は、温かなアールグレイティーの湯気に惹かれて正常な動きを取り戻した。イチゴが乗ったガトーショコラを前に瞬きと呼吸を数度繰り返す。打撲だらけの利き手には冷たい湿布が包帯で固定され、出血が多いところには絆創膏や脱脂綿があてられている。頬や爪にこびりついて乾いた血痕も丁寧に抜き取られ清潔な状態が保たれている。僕は座ったまま、やけに物が少ない白いキッチンで包丁を洗っている彼を目で追っていた。彼は僕の隣の隣の部屋に最近越してきたらしく、挨拶のタイミングを伺いに来ていたらしかった。

「なんで優しくしてくれるんですか」

 名前も問わず、怪我だらけで包丁を握っていた怪しい男を部屋に招き入れ、やはり何も言うことはなく彼は僕の手当を続けた。それからケーキを出し、温かい飲み物まで用意してもなお何も言わない彼に、有り難いと思うよりも懐疑的になっていた。

 彼は濡れた手を拭きながら、ふふと笑うと、僕の向かいに座った。素朴な目を柔らかく細め、警戒心丸だしになっているであろう僕の顔を面白がって覗き込む。

「大丈夫よ。俺、みんなに優しいけん」

 毛の細い髪をわしゃわしゃ掻いてにこにこしている彼はなんだか人懐っこい小動物に似ていた。みんなに優しいと言うが、優しい人と出会わずに生きてきたため、その優しさの起因が不明であることに不安を覚えてしまう。彼から感じる小動物っぽさも、よくよく見れば恐らく三十代中盤ほどと思わしきことを加味すれば、ただの愛嬌と受け取るにはいささか胡散臭い。

「理由がわからないです」

「理由が必要?」

「はい」

 彼はふむと口を尖らせた。彼の瞼の薄いソフトな瞳と、僕のやけに艶を帯びた三白眼が重なり、沈黙が続く。先に視線を逸らしたのは彼の方だった。右に逸れた視線はそのまま冷めつつあるティーカップへと移っていく。

「冷めちゃうよ?」

「あ、ごめんなさい」

「知らない人から出された飲み物とか口にしたくないっちゃんね」

 慌てて白いティーカップに手を置くも、一瞬飲むのを躊躇った姿を見て、彼はケラケラと笑う。手を伸ばし、僕の手からティーカップを奪うとそれを一気に煽る。呆気にとられているのを彼は笑い飛ばす。

「理由なんて君が好きなもので良いんですけど」

 唇をぺろりと舐めて彼はそう言った。その笑顔にセンシティブな影が落ちる。色が見えない。心地良い声音を聞いていた筈が、僕自身がラムネの泡の中に閉じ込められてしまったような錯覚に陥っていた。彼はほんの少し身を乗り出し、ぴんと人差し指を立てた。それは僕の目線を誘導し、二人の真ん中に指し示される。

「甘いものはお気に召さんと?」

 支配されつつある神経を断ち切るように手の震えを抑え、フォークを握った。目の前のケーキを大胆に切ると、貪るようにそれを頬張った。豊かな香りと甘酸っぱさを嗅覚味覚を使って正しく受け取れていることに安堵し、飲み込んで、姿勢を正す。

 いつの間にか曙色に染まった空が彼の円い頬を照らす。一つでも間違えれば、今にも崩れてしまいそうな時間を刻む。彼に流されてはいけない、と直感が鋭敏になっている。

「ところで、君の名前はなんて言うの?」

「……阿由葉鮎美です。変な名前なんですけど」

「ううん。そんなことないよ。あゆちゃんって呼ぶね」

「呼ばなくて良いです」

 彼が笑う。ただでさえ僕は自分の名前が好きではない。彼の本気なのか誂っているのか判断しかねる反応には内心苛々していたが、それを顔に出さないように気をつけながら、貴方は?と問うた。彼は僕の真似をするようにわざとらしく姿勢を正すと、デフォルトのような笑顔を作り、白い歯をにかっと開けた。

「えーと、俺は、春海陽樹って言います。ぱるたんって呼んでね」

「呼びませんよ」

「気軽に」

「気軽に、じゃなくて」

 ペースに乗せられ、思わず苦笑を漏らす。それを見て今しがた陽樹と名乗った男は満足気に笑み、席を立った。中途半端になっていた洗い物の続きに取り掛かる。少し丸みを帯びた背中はおおよそ僕よりも小柄であるのに、真っ直ぐ対峙している間は彼の方が小さいことに気がつきもしなかった。思えば、廉は僕よりも身長が高く筋肉質であったし、僕が仕事で秘書として行動を共にしている天羽社長は廉よりも身長が高く、これまた筋肉質な人なので、僕は自分が一番小さい環境に身を置くことに慣れてしまっているのかもしれない。それは体格の話だけではなく、あらゆる面で。僕は僕を大切にすることが下手で、今も本能が拒否しているにもかかわらず、彼の空気に飲まれようとしている僕もいるのだ。また好きでもない人の胸元に溺れようとしているのかと思うと、ぞっとする。溺れている内は死ねそうという希望でハイになれるけれど、それはちぐはぐで、悪戯で、空っぽな欲望に過ぎない。本当に死ねるわけでもなく、傷だけが増えて、傷だけが僕だった。僕は幸せにはなれない。なってはいけないのだ。汚れた血と金で生きてきた僕は、今からではどうにもならない過去の上に立っているから、同じくらい駄目な人を探して駄目になることで安心したかっただけなのだ。彼は違う。彼はとても綺麗な人だろう。

 僕の感覚からすれば異常と言っても過言ではないほど、この部屋はやけに整頓されている。そんな生活感が微塵も感じられない中でも、花をモチーフとするアクリル画やレリーフの施された置物が慎ましやかに飾られているのが目に入る。僕に用意されたティーカップやソーサラー、フォークの持ち手にまでも花柄の装飾があることに気がつき、彼は見た目は気張っていないながらも、強い美意識があることを察知する。僕は昔から部屋の片付けなり家事なりに意欲が無く、大人として外では取り繕っている分、増して家の中は乱れてしまうきらいがあった。しかも、あのときは我を忘れていたからどうなっているかは覚えていないが、廉と揉めたせいで部屋が壊滅状態になっているであろうことは検討がついた。現実にはうんざりだが、いつまでもこうして迷惑をかけるわけにもいかない。

「陽樹さん。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。今日のところは帰りますので、後日改めてお礼に伺います」

「お礼なんて要らないけん、たまに気が向いたら一緒にご飯でも食べようよ」

 陽樹さんはそう言うと、戸棚から赤い花柄のマグカップを取り出し、そこにココアを淹れ、マシュマロを浮かべた。後ろは向いていて顔は見えなかったが、徹頭徹尾彼の声音は優しかった。

 ご飯。ご飯か。そのくらいなら、友人までも行かないような知人とすら行うことであって、何の後ろめたさもない行為だろう。思えば、僕にはそう言った後腐れのないフラットな関係性の相手がいたことがなかった。いつだってそれは僕のせいであったが、どんな形であれ、最後にはいつも壊れてしまう。この人とならどうだろう。僕は彼のことは何も知らないけれど、もしこれからも何も知らない、知ろうと思わなくて良い距離感でいられたなら。僕の生活の浮遊感は少しは良くなるだろうか。

「そうですね」

 社交辞令と期待の入り混じった言葉を残して、僕は彼の部屋から退散した。とっくに空は爽やかなブルーへと変わっていて、改めてまた一日が始まることを告げられてしまうと、敵うはずのない抵抗すらしたくなってしまうが、浅い呼吸しか出来ない胸でも生きていくしかないことを僕は知っていた。彼との出会いを経て、何だか今日は気持ちが良いなんてことにはならなくて。様々なことが起きすぎたから、何も休まることなく今日を過ごさなければならないことに頭を抱えてしまう。これも全部自分のせいだ。物が溢れ散乱した部屋、あと少しで壊れてしまうようなガラクタに似た僕の世界にも、等しく今日が来ることに、なんて神様は残酷なのだろうと思うのだ。