『糜爛』⑲

nao_ser
·

******************

 今更、己の不幸を恨んだって、意味はないな。それだけのことをしてきた。そう思うために重ねてきた。でもね、だからって。

 真っ白な部屋の真ん中に、真っ赤な血を流して横たわる男を僕は呆然と見ていた。手から、スイーツの入った紙袋が滑り落ちる。べしゃりと潰れる音がする。同時に、力の抜けた腰がフローリングに打ち付けられる。残酷で、綺麗な、その景色 非現実的な空間に、何が起きているのか理解する力を奪われる。飛び跳ねた血に染まった、薔薇の絵画。割れた赤いマグカップからはミルクが溢れている。

 震えて動けなくなった下半身を引きずるようにして、後退りをする。逃げよう。通報するべきだ。整然としている風の頭を他所に、僕がかけた先は瑠人さんの番号だった。いつもの何倍もコール音がけたたましく聞こえる。どうしてこうなってしまったのだろう。部屋中に漂う、生臭さに気が遠くなりそうだ。

 空気がつんと冷える季節。午後四時過ぎ。このマンションを出ていくと挨拶するために、陽樹さんの部屋に訪れた。何故だか鍵が開いていて、呼びかけても返答が無く、心配になって部屋を覗いた。リビングのドアを開けた先、そこにあったのが、コレだった。

プルルル……

 人よりも張り詰めた空気をたくさん経験してきたという自負があったが、そんな僕でも経験したことがない寒気に襲われながら、コール音を聞く。四回目のコールで、瑠人さんが出た。

「もしもし?」

「瑠人さん、今、僕、陽樹さんの、部屋に、いて、その、」

「春海さんなら、今丁度コンビニで会って」

 言葉を捻りだそうとしても、眼前の景色が頭を直撃してそれ以外のことが何も考えられない。前頭葉だけが異様に熱く感じられる。振り払いたくても、目を瞑ってみても、消えない。死。病死した母やその夫達の遺体とは違う、死体の姿。歪んだままの肌の質感、臭い、色。荒い息を吐くばかりの僕に、電話口で瑠人さんは何度も「大丈夫か?」「どうした?」と声をかけ続ける。

「……助けて、助けてください」

 それだけを繰り返す僕は、突然、後頭部に強い衝撃を受けて受け身も取れないまま倒れていた。骨が硬い床に当たる。驚きの後から熱を帯びた痛みが広がる。スマホが転がり落ちる。瑠人さんの声がラグに吸収される。息が苦しい。身体が動かない。脳が爛れてしまっているような感覚。恐らく出血をしているのだと思う。何が起きたのか理解は出来ないまま、逃げなければという強い確信が心臓を押しつぶす。這い蹲って動こうとする僕を、蟻でも踏むかのようにスリッパを履いた足が蹴る。朦朧とする意識の中、見上げた先にいたのは知らない女だった。暗く重たいおかっぱ頭に、じっとりとした眼差しをしている。女の頬には返り血がついていた。言葉が発せられない僕を見下している。女は手に血に濡れた天使の燭台を握っている。女は転がった僕のスマホの電源を切ると、身を捩らせている僕の方へ一歩、また一歩と近づいてきた。ああ、これはヤバいやつだ。本気で死を意識すると、不思議と笑みが浮かぶ。人生経験上、ここから逆転とかないのをわかっている。いつ死んでも良いと思っていたけれど、こんな見知らぬ女に殺されるのは御免だ。

「死んで。死んで、死ね蛇男。私達の世界から消えて。邪魔しないで。彼は私のもの、私のものなんだから、私の邪魔をするお前が悪いのよ」

 震えながらぶつくさ呪いを唱え続ける女は、生理的な瞬きすら忘れて真っ黒な目をしていた。屈み込み、痛みに唸る僕をじろじろ見る。乾いた髪の毛、糖化した肌、落ちくぼんだ目。僕は女の顔に唾を吐いた。それから赤い舌を出し、たとえ殺されたとしても僕はあんたより美しいぞ、と示して見せた。今際の際になってまで、僕は自らが艶美であることに拘泥していた。僕の全てはそこに集約しているということに、こんなになってしまっては認める外ない。

 女は激昂した。振り下ろされる燭台を辛うじて一度は避けたものも、体力も残っていなくて、助かろうとする元気も無かった。

「春陽は私のもの。お前なんかに触れさせないから」

「……はるひ?」

 遠退いている意識の中で言葉が単語として認識されることを拒み、その外連味のある響きを持つ名前には、いつか食べたマラスキーノチェリーを思い出す。砂糖につけられた真っ赤なさくらんぼ。熟れて、膿んだ、恋心。彼女の殺意は僕と似ていて、ようやくあの日の答え合わせが出来たような気がした。

 外の鉄製の階段を駆け上がる音がダダンダダンと響き、重たいドアが勢いよく開いた。白と赤とのコントラストが激しい部屋の中に夕日が差し込んで、眩しかった。

「鮎美! 助けに来た!」

 そんなに急いで大きい声を出す瑠人さんを見たのは初めてだった。瑠人さんはハンカチを僕の頭部にやり、傷口を抑えた。僕と女の間で、僕を背にした状態で女と睨み合う。深い黒、静かで強い紫の光を秘めた瞳は今にも暴れ出しそうな女を牽制する。瑠人さんは女の方を見ながらもその付近にある知らない男の死体を横目で見て、吐き気を我慢するように唇を噛む。彼がホラーもグロも苦手なのを僕は知っている。誰よりも優しく、平和な人間である彼をこんなことに巻き混んでしまったことが、頭の痛みよりも何倍も痛く、苦しかった。

「お前、誰。関係ないでしょ、退けなさい。そいつ、殺すから」

「出来ません」

「だったらお前も殺す」

「あのねぇ! そんな簡単に人を殺しちゃ駄目なんですよ」

 とんでもない正論をぶつけられ、女はキイィィと金属の擦れるような甲高い声を発して燭台を振り下ろした。瑠人さんがそれを白刃取りすると、そのまま捻って女のバランスを崩させる。ふらついた瞬間に足を引っ掛け、女がみっともなく倒れたところをすかさず抑え込む。もはや人間も辞めたかのように、女は髪を振り乱しながらギャンギャンと声を上げている。それでも明らかに体格差のある瑠人さんはびくともしなかった。貧血状態の頭には何が何やらで、白昼夢のような景色に浸り、僕はぼんやりと瑠人さんは格好良いなぁと思った。

「こっからどうしたら良いのかわからないのだけど」

 恐らく他人に対して初めて手を上げたであろう彼が戸惑いながら、なおかつ力を緩めれば直ぐに危険に晒されてしまう状況下で、素っ頓狂な声を出す。そこで、ドアがゆっくり開いた。入ってきたのは陽樹さんだった。陽樹さんは白いパーカーのフードを被り、手にはコンビニの袋を提げていた。フードに圧迫されて目にかかった前髪の下で、彼の顔からは表情が消えていた。緊迫した空気、あり得ない状況には目もくれず、当たり前の日常を過ごすみたいにリビングを横切る。瑠人さんは眉根を寄せ、その一連を訝しげに追っていた。僕は、もう声が出なかったので彼に何を聞くということも出来なかった。陽樹さんはダイニングチェアに座り、テーブルの上にアイスを二つ並べた。

「ただいま、弓月。ミルクとイチゴ、どっちが良か?」

 その声がやたらと耳に響く。薄い桃色の唇がひりひりとした空気を喰む。瑠人さんの下で女が呻いて反応を示す。

「アイス解けるたい、その子を放してくれませんか」

「春海さん、君って」

「るっぴーくんならわかる筈だよ。その子を放してくれんと、俺は君達を殺せんといかんくなる」

 瑠人さんは返事の代わりに力を緩め、女はよたよたと立ち上がった。陽樹さんの向かいの席に座り、人が変わったようにえへへと笑う。もう、気味悪がったり怯えたりするのにも疲れた。僕の元に駆け寄った瑠人さんの手は震えていた。不意にスプーンを咥えた陽樹さんが壁にかけられた薔薇の絵に向かい、乾きかけている血溜まりを手で掬うと、もう一本の薔薇を描き足した。そのままこちらを振り返り、正気じゃない顔で僕らに告げる。その一連の仕草は、とんでもなく綺麗だった。

「鮎ちゃん、るっぴーくん。そこの引き出しに救急箱あるけん、手当してそのまま帰って。今までの、俺のことは全部忘れて」

 そんな呑めない要求があるだろうかと思ったが、やはりこれも、言うことを聞かなければ殺すという意思を持った言葉で、僕たちはそれに逆らえるような状態ではなかった。にっこり笑う。僕と瑠人さんに近づき、構えている身体に顔を寄せ、小さく呟いた。死体のある部屋でアイスを食べる二人の姿が、見えなくなっていく。瑠人さんの裂けるような声がゆわんゆわんと揺れながらも、僕を必死にこの世に留める。

 以降、どうなったか、僕は何も知らない。目が覚めたときには自分の部屋にいて、陽樹さんとあの女は姿を消していた。瑠人さんが警官にあれこれ説明を済ませてくれていて、勿論、かなり僕が疑われもしたが、それも瑠人さんのフォローのお陰で意外と早めに収拾がついた。カタカタの爪を鳴らして、何にも知らない猫が瑠人さんの足に擦り寄っていた。

 しばらくして、姉がやって来た。いつも顔色一つ変えない姉が息を切らしていて、僕を見た瞬間に強く抱き締められた。女性的かつ、不健康な細身の体躯に守られながら、僕は声をあげて泣いた。