『糜爛』㉔終

nao_ser
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『糜爛』

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 廉の結婚式から帰ってきた瑠人さんは、珍しくお酒を飲んでいた。下戸な彼も、周りの空気を読んで飲まざるを得なかったようだ。そんなことよりも、廉達が普通に式まであけで結婚したことには驚きを隠せない。しかしまあ、そんなものか、という気持ちもある。

 廃人と化していた僕を助けてくれたのはやっぱり瑠人さんで、僕は彼がいなければ死んでいただろうと、出会って十五年の内、数え切れない程に思ってきた。

 へらへら笑っている稀有な姿に、やれやれと大袈裟な仕草でペットボトルの水を差し出す。冬が始まる街並に呑まれることもなく立ち止まった僕たちは、自分の足で歩いて行く方角を決めなければならない。。

 香水をつけない彼からは赤ちゃんみたいな匂いがする。いつもより虚ろな紫の目は僕の横顔を見つめたまま、ピンクの唇は優しく笑む。

「鮎美、ありがとう」

 慈しむように、大切なものを包む声で僕の名前を呼ぶ。

「俺を好きになってくれてありがとう。頼ってくれて、出逢ってくれて、ありがとう」

「ありがとうって何回言うんですか」

「何回も言うよ。大好きだもん」

 その好きが僕の好きと違うものであるのは知っている。ずっと前から瑠人さんは瑠人さんの"好き"を僕に抱いていて、その上で、冗談でも好きだと口にしなかった優しさを知っている。

 「ねぇ、飲み過ぎ」

 そして今、酔ったついでにそれを言ってしまおうという、その気持ちも優しさであることを、僕は痛いほど知っている。もしかしたら、そのために酔ってきたのかもしれないとさえ思った。そうだね。真剣な顔なんてしないでね。痛みがぶり返すことに、飽きたとて慣れはしない。

 自嘲する赤い唇が夜闇の中に、浮かぶ。冷たい風が熱い身体に心地良かった。

 僕はこの世界に、希望を見出したなんてこともない。絶望をしたということも、ない。ただ生きて、死にたいと思いながら、また明日がくるだけ。誰かに救われてきた命。大切する仕方が未だ見つからない。生きているだけで罪を背負ったような人間だ。不幸を纏い、艶やかな破滅を選ぼうとする。だからこの手を捕まえていてねって、嫌な奴。それでも生きている。生きていれば何とかなるとか、血という運命は変えられるとか、人生が劇的に変わるとか救われるとか、そんなのは全部無い。外に立ったまま、ガトーショコラを落とさないよう、小さいデザートスプーンで食していた。飾られた真っ赤な苺をフォークで刺す。口に放り込む。瑠人さんの歯がそれを咀嚼する。僕はそれを見て、そんな風にされたいと思った。

 ストリートピアノが目に入り、僕は瑠人さんの傍から離れてその椅子に座った。瑠人さんはぼやぁっとその様子を見ていた。仄かに頬を緩ませていた。彼は昔から、ピアノを弾く僕を嬉しそうに見る。音楽は良い。表しきれない感情も、乗せてしまえば美しく流れる。血脈のよう、全身を巡って。

 どんなに母へ愛憎を抱こうが、母さんが弾くピアノは世界一美しかった。絡む糸を解くように、僕の指先が綴り出す。

 曲はリストの『ラ・カンパネラ』。

 何よりも華やかに、切実なほど綺羅びやかに。これが貴方への好きです。どうしようもないな。溺れている。命を捧げられるほどに好きです。熱が籠もる。苦しくて、息が出来ない。強く撓る鰭。剥がれる鱗は瑠璃の宝石。泡を吐いて。死の近くに行けば行くほど、僕の輪郭は濃くなっていく。身体全部使って、弦を弾く。血は滾る。振り始めた雪は花弁のようだった。美しく散れよ。指輪の無いこの指は貴方に約束を結ばせたくて、これが愛ですって言葉にすれば陳腐になってしまいそうだし、この恋にけじめなんて僕は絶対ちゃんとつけない。貴方はグラサージュショコラの照った外側にナイフを入れてくれはしないでしょう。毒は苦しみも虚しさも濁して甘い嘘をつき、エゴも欺瞞も綯い交ぜにして、形だけ整えれば見目も悪くないし。どっぷり浸かった夢から覚めるのは億劫だ。貴方がいるから目を開ける。込み上げるちぐはぐな感情は、喉元を焼いて言葉にならないまま、声として空気を揺らす。誰だって愛されたいし、愛していたいだろう。他人には解らぬ信号・暗号になってしまったとしても、それは一人では生きてられないその掌に握るもの、それから心臓に刻むもの、生命を突き動かすもの。剥き出しの傷口から五感全部で触れれば、糜爛した。愛していた。