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今日は何だか夜が濃いような気がする。瑠人という名前のせいで青色ばかりを充てられてきたが、俺はあまり青色が好みじゃない。ブルーな気分という言葉があるように、暗いものを見ると暗くなってしまうから青は苦手だ。同じくらい夜も苦手だった。
濃青の中に浮かぶ白い顔、赤い唇。俺は風呂上がりで濡れた髪のままもこもこのルームウェアを着た姿で彼女と向かい合っている。タルトタタンのような彼女からはいつだって危険な林檎の匂いがする。
「どうしたの、鯉都さん」
「酔ってしまったの。今日はもう一人で帰れそうにないわ。泊めてくれないかしら」
嘯く彼女は綺麗だった。俺は考える。けれど、考えたって彼女に逆らえないことは自分が一番良くわかっていた。しかしまあ、どうして君たち姉弟はそうも嘘つきなのだろう。嘘をつくことを咎めるつもりはないが、嘘なんてつかなくたって俺は君たちに無償で優しくするというのに、と思ってしまう。
「君が酔うわけないでしょう。一晩泊めるくらい、理由がなくなって駄目なんて言わないよ」
「あんた、相変わらずね」
彼女は呆れたように鼻先で笑った。悠々と高いピンヒールの靴を玄関に脱ぎ捨てる。それから部屋の中まで当たり前のように突き進んで行った。誰にでもきっとこういうことをしている。その中でも俺は"相変わらず"であるから利用しやすいのだ。なんてことは解っていて。もやもやするのはあまり得意じゃない。俺にとって、それは夜とか青とかと同じ部類だ。ぼーっとしていて何も考えてないように見られがちだが、考え込んでしまう時が無い訳ではない。俺だって思うことがたくさんある。努めて、顔には出さない。こんなときには表情に乏しいこの顔が役に立つ。実際のところ、彼女が俺の考えていることに気づいてないとも思わないけれど。気づいてない可能性がゼロじゃないくらいには、外に出さないようにしておきたい。
ワンルームの部屋にはろくに座る場所もなく、彼女は勝手に俺のベッドの上に腰掛けてテレビの電源をつけた。バラエティ番組の軽快な音声が響く。変なシチュエーションだ。俺と彼女の間に漂う空気はそんな明るいものではない。俺は彼女に麦茶を差し出した。
「悪いわね」
「全然」
ごくりと音を立てる喉。淡桃の膝、乱雑に投げ出された脚の先のペディキュア。視線はうろつき、やがてやり場がなくなって、瞬きの数が増える。最終的に、彼女の微光携えた瞳と目が合うと、彼女は艶やかに笑んだ。すっと体勢を崩し、布団の上に上がり込んだラグドールを撫でながら俺の様子を見つめる彼女は何処かとっぽい。
「あんたもそういうのあるのね」
含みのある言い方に、その意図を読んだほうが負けなような気がして為す術もない俺は彼女の前では無力だった。いや、とだけ言って、言葉が見つからずホットミルクを飲み干す。喉が熱い。本来なら、急いで飲むものではない。味もしない。今あるのは現実だけだ。
彼女は身体をベッドから下ろすと、うちの猫よりも気まぐれな仕草で手を伸ばした。花の香りが迫る。黒髪が揺れている。
「あんたには感謝してる」
「感謝されることなんてないよ」
「ねぇ、一回くらい良いわよ。あたし、あんたのこと嫌いじゃないし」
嫌いじゃないじゃ、意味がないんだよ。俺は君のことが好きなのだからって、言わないことでしか全てを守れない自分が嫌になる。あまりにも、あまりにも長すぎたな、この恋は。理由なんてなくたって俺は君たちに優しくするし、正しさなんてなくたって君も俺に優しさを見せる。もう、そういう関係になってしまったんだな。
彼女の細い手を掴む。ずっと昔、彼女と出逢った日のことを思い出した。大学のサークルで先輩達に嫌われていた僕は、苦手だと言っているのにも関わらず、キャバクラに連れて行かれたことがあった。そこで働いていたのが彼女だった。先輩達は女性達の前で俺をこき下ろした挙げ句、支払いを全て押し付けようとした。財布を忘れた。ここのオーナーは怖いやつなんだと言っていたが、全てわざとであることくらいは気づいていた。それでも店に迷惑をかけるよりはマシだと財布を出した瞬間、彼女は立ち上がり、中身の入ったワイングラスを先輩の頭上に傾けた。驚くボーイを無視して、怒る先輩を無視して、彼女は何もかも無視して、俺の手を掴んで走って逃げた。暗い夜の中でも唯一煌々としている繁華街を、何よりも華やかなドレスを着て走る彼女は綺麗だった。彼女を中心にして地球は回っているんだって、本気で思った。
『どうして?』
『あんたが良い子だったから』
それから一度も繋いだことがなかった手を、今、また繋いで、そのままいなすように彼女を押し返す。そういえば昔に、鮎美にも同じようなことをしたな。あれももう、何年前だろう。うん、やはり、長すぎたんだ。それから、俺も君も、優しすぎたんだ。
「どうして君たち姉弟は、そうも自分を大切にしてくれないのかな」
「あら、お説教? そんな柄じゃないでしょうに」
「あのね、鯉都さん。俺は君から何も貰う気はないです」
良い子だなんて散々言われてきたけれど、彼女からのそれは特別だった。俺に出来ることは、良い子でいることだけだろう。鯉都さんにとって都合が良い、利用しやすい、そんなものでも構わない。俺が彼女を好きであることは彼女にとって意味のあることではないから。恋とはそういうものだと思うから。
『弟を宜しくね』
彼女の世界はとても小さくて、どれだけ弟妹が宝物であるかは容易に想像がついた。それと同じくらい、彼女のその細い体でそれを守っていくことの辛さを想像した。もしも、生まれや育ちが違ったなら。彼女はどんな女性になっていたのだろう。今よりももっと心から笑えていただろうか。そんなもしもは、要らないか。俺はただ何があっても彼女の大切な物を守ると決めていた。それは彼女達の呪いの一部を背負うことと同じ意味なのだ。
身体を起こした彼女はすたすたと洗面所の方へ行ってしまった。残されて、俺は空っぽになったマグカップとグラスをシンクに置いた。生活音の中に居る彼女が洗面所から、
「あたし、ほんとに泊まってって良いの?」
と聞いてきた。
「うん」
と俺は答える。蛇口を捻って水を出すと、食器に当たって銀のシンクに跳ねる。尚も、テレビの中では大人たちがゲラゲラと笑っている。風呂場からシャワーを流す音が聞こえる。彼女の鼻歌が聞こえる。尚も、テレビの中からはおかしなことを言って楽しそうな笑い声がしている。上手く笑えていないのは俺だけだ。