『糜爛』⑬

nao_ser
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 ある晩、帰宅していつの間にか眠っていた僕は呼び鈴の音で目を覚ました。ソファから落ちるようにして起き上がると、コンビニのレジ袋を踏んづけてグシャグシャと音がなった。積まれた本に躓きながら、玄関ドアを開けに行く。電球の切れかけた廊下はチカチカと薄暗く、僕の頭はまだぼうっとしていた。ドアを開けても夜なので本来は暗いはずが、そこに立っていたのは陽樹さんで、部屋に光が差し込んだような感覚になった。

「ごめんね、急に〜」

「いえ。どうしたんですか?」

「んーいやちょっとさ、謝りたいことがあって」

 そう言って、陽樹さんはビニールの手提げ袋に入ったたこ焼きを差し出した。食べながら、話さない?ということのようだ。僕は片手でドアを抑えたまま、ちらりと自分の背後、つまり自分の部屋の中を覗いた。改めて見ても、見なくたって、人をあげられるような状態ではない。ならば外? いやでも今日は少し肌寒かった。断ろうか。いや、陽樹さんがわざわざ僕と話すために手土産まで用意して来てくれたのだ。僕はしばらく考え込んでしまっていたようで、沈黙に耐えかねたらしい陽樹さんが口を開いた。

「押しかけちゃってごめんなんやけどさ、俺、酔った鮎ちゃんを介抱してる天羽くんの手伝いで、前に部屋入っちゃっとるんよね」

「え? 僕の部屋に? ていうか、瑠人さんと会ったんですか?」

「やけん、そういうのも含めて謝りたいことがあるとよ」

「うーんと、わかりました。マジで汚いですけど、どうぞ」

 瑠人さんの話は前にしたことがある。したことがあると言っても、自分が務めてる先の社長で、恩人だと言っただけだ。まさか二人が会っているとは思いもしなかった。陽樹さんの綺麗にしている部屋を知っているからこそ、この部屋に彼をあげることには抵抗があった。しかし、瑠人さんが関係している話なら僕は聞き逃すことは出来ない。自ら提案ということは潔癖という訳では無いようだし、単に僕のだらしなさが露呈するだけなので甘んじて受け入れようと思う。リビングに彼を座らせようにも座る場所がなく、僕はさっきまで自分が寝ていたソファから毛布を引っペ返し、一応座れる状態を作った。冷蔵庫からペットボトルのお茶を出し、ローテーブルの横側のほとんど地べたの床に腰を下ろす。

 陽樹さんが持ってきたたこ焼きは少しだけ冷めていた。彼は一個を一口で放り込むと、頬を膨らませながら食べていた。飲み込むと、僕の目をじっと見ながらこう切り出した。

「俺、この前ここに来たときに、天羽くんに余計なこと言ってしもうたんよ」

「余計なこと?」

「天羽くん怒っとらんかった? なんかいつもと違う態度とか、しとらんかった?」

「してないですよ。しないです。瑠人さんは簡単に怒ったりしないです。怒ってても、変な態度をとったりしない人です」

 陽樹さんは僕の言葉を聞くと、膝に肘をつきながら頭を抱えた。知り合って長くはないけれど、こんな彼を見るのは初めてで僕は困惑していた。

「そうなんだよね。わかっとるよ。なのに俺は、私情持ち出して天羽くんのことを責めるような言い方しちゃって」

「何言ったか知りませんけど、瑠人さんは優しい人なので謝ったら許してくれます。でも僕は、陽樹さんの言ったことによっては、許しません」

 プラのパックの上で爪楊枝から外れたたこ焼きがべちょりと潰れる。陽樹さんの暗い目に見慣れていなくて、僕は居心地が悪かった。わざわざ謝りにくるほどのこと、何を言ったのか聞くべきか。聞くべきなのだろうけれど。あの日、人を殺そうとしていた僕を助けれてくれたこと。何も聞かずに優しくしてくれたことを覚えているから。

「……って言いたいんですけど、良いです。瑠人さんは怒ってないだろうし、そんな気にしなくて良いですよ」

 彼を問い詰めるようなことは出来ないよなぁと思う。

「ごめんね」

「僕からも瑠人さんに伝えておくので」

「ありがとう」

 それから、すっかり美味しくなくなってしまったたこ焼きを食べ終えても、僕たちはどうでも良い会話を続けていた。どこどこのスイーツが美味しいだとか、部活に入ったことがないだとか、そんな話。好きな映画の話を持ち出しておいて、二人とも全然知らないから膨らまずに終わったり、途中で宅配便が来たので出たら、誤配達だったりする時間があった。それから、陽樹さんがアートを売って生計を立てているという話も聞いた。だからあんなに飾ってあったのかと合点が行った。彼はミニマリストなだけで綺麗好きなつもりがないらしいことも聞いた。人の部屋が散らかっていても気にならないが、鮎ちゃんがそういう感じなのは意外だったなぁと言って笑っていた。職場に悪戯電話がよくかかってくるようになって困っていると言ったら、それ俺かも知れんなぁとマジで意味のわからないことを言ってきたので笑ってしまった。

「そういえば、この前の妹ちゃん。似てなかったね」

「血が繫がってないんです」

 反応に困るであろうことを言ってしまってみても、陽樹さんはいたって明るく相槌をうった。そうだったんだねぇと、笑って言った。続けて、彼は自分には家族がいないということを教えてくれた。高校生の頃から一人暮らしをしているらしく、見かけによらずに苦労をしているのだなと思った。何だか大事な話をたくさんしていたけれど、最後にはトウモロコシの粒が必ず偶数らしいという豆知識を、家にあったトウモロコシで検証しようとして頓挫して終わった。

 すっかり遅くなってしまい、そろそろ帰ろうかと彼が言い出した。立ち上がると、ゆっくり改めて僕の部屋を見渡した。整頓されていないなりに棚に並べてあるたくさんの『おもちゃのカンヅメ』に近づき、小首を傾げている。

「なんでこんなにおもちゃのカンヅメがあるの?」

「瑠人さんが金のエンゼルが出る度にくれるんです。瑠人さん、めっちゃ金のエンゼル出るんですよ」

「あぁ、そうやろうねぇ」

 喉の奥で鳴らしたみたいな小さな声で陽樹さんは言った。コレクションを見下ろす明るい色の瞳には、ほんのり影がかかったように見えたが、次の瞬間にはまたぱっと明るく笑みを作って僕の方に顔を向けた。

「じゃあね」

 と、言った彼を玄関の外まで見送った。見送るまでもない距離ながら、彼が帰っていく後ろ姿を僕は最後まで見送った。