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清流の女王の名を含有した阿由葉鮎美という名と、金縁丸眼鏡の奥から覗く冷ややかな眼差しと、ほのかに漂う甘い花の香り。初めは転職先にいた偉そうな若い秘書という印象でしか無く、俺は彼が嫌いだった。前に勤めていた大きな会社をバイセクシャルであることがバレたせいで退職し、仕方なく転職した先の中規模の会社で、自分より歳下の男が社長のお気に入りとして重宝されていることが気に入らなかったのだ。
本当の意味で彼と出逢ったのは、俺達みたいなのが集まる場末のゲイバーで酔興にピアノを弾いている姿を見たときだと思う。薄暗い店内で、艶を帯びた瞳が熱っぽく潤んで揺れていた。プロ並みに上手いとかではなかったが、クールなイメージだった彼が随分感情的になっていて、俺はしばし見惚れていた。最後の一音を弾き終えた彼は泣いていた。その目と目があって、彼はようやく俺の存在に気がついたらしく、慌てて立ち上がり、逃げるように店から出て行った。
「阿由葉さん」
暗い路地裏で呼びかけると、観念したらしい彼はゆっくり振り向いた。切れかけのネオンがバチバチと点滅し、その度に彼の黒目が魚のように光る。酔っているのか、いまいち視線の定まらない彼は低く唸るように「あぁ」とだけ答えた。俺のことをわかっているのかもわからない反応だった。
「ピアノとか弾くんすね。あれ、何て曲でしたっけ?」
そんなことに興味があった訳では無い。もっとも、俺はこのときまで彼のことが嫌いだったのだ。引き止めてまで言うことなんて何もなかった。ただ一つ、彼があそこにいたという事実は、俺が以前から薄っすら感じていた疑念を確かなものとするだけの根拠になり得ると思っていた。嫌い、嫌いだったが、ある意味で同族。だからこそ勘付いていたこと。社長の顔を見上げるとき、貴方に嫌われては死んでしまうとでも言いたげな乞うような瞳をしていながら、怯えていながら、逸らしてしまえば不安に押しつぶされてしまうから逃げられなくなっているのを見てきた。隣に立っている喜びと、それでも縮められない数センチの距離の悲しみに、気づかれたくなくて無愛想なのを見てきた。残念ながら、俺達は似ている。
「阿由葉さんって、やっぱり社長のことが好きなんですか」
壁に寄りかかり、つまらなそうに爪を見ていた彼の眉がぴくりと反応した。それからじろりと俺を一瞥し、ゆらゆらと近づいてきた。俺よりも少し背が低く、俺より幾分の骨ばった細い線の体躯。上目に見つめる三白眼に囚われていた。圧、ともまた違う。何か不思議な力に逆らえなくなっていた。
ゆっくり首を傾けながら、彼は俺の肩に手を回した。笑っているところを見たことがなかったその赤い唇の端が嗤う。それから、すっと首筋をなぞるように右手をおろしながら爪を立てた。
「愛の夢」
「え?」
「リストの、ご存知ないんですか?」
「あ、さっきの」
「ピアノねぇ。母さんがよく弾いてて、ヒトってそういうキレイっぽいの好きじゃないですか」
切れ長の目を細めたかと思えば、飽きっぽく視線を落とし、俺の首に立てていた爪をぼんやり眺めていた。
「爪切った方が良いな。ね、そう思いません?」
___僕、本当はマニキュアとかも塗ってみたかったんですよね。ハイヒールとか、ドレスとか、そんなのも。別に心が女ってわけじゃないんです。でもね、武器が女なんです。そういう血が流れているんです。だったら、だったらね、もっと綺麗になれたら良かった。そうしたらあの人だって___
そこまで言って、散々一人で捲し立てていたよく動く口は、行き場を無くして動きを止めた。腕を下ろし、一歩後ろに下がった彼は、いつも見る冷たい眼差しに戻っていた。
「……最悪。酔い覚めた」
勝手に捕まえられ、勝手に放置された俺は、ふらふらと去ろうとする彼の腕を無意識に掴んでいた。引き止められた彼は眉根を寄せて振り向き、舌打ちをした。生意気で、蠱惑的で、不安定な様に乱されているのは俺の方だったが、どうにもこの男を手に入れたいと思ったのだ。
「何ですか」
「こ、此処で会ったこと、誰かに知られたら不味いんじゃないですか」
「それは廉さんもでしょう」
「俺は別に。彼女もいませんし。でも、阿由葉さんは困りますよね。バレたら真っ先に社長との関係疑われますよ」
嘘だ。俺は口から適当なことを言うのは得意で、思ってもない嘘を並べていた。俺には咲葵という彼女がいる。彼女のことは彼女として本当に好きであったが、このときは阿由葉鮎美を止めることに必死になっていた。何が俺をそうさせたのかはわからない。強いて言うならば、彼がそうさせたのだと思う。それは恋心とは違う。もっと貪欲で、暴力的な衝動だった。
「はぁ? 何、脅し? あんたクソだな」
「清くなんて誰が生きれる」
清流の女王。銀の鱗をキラキラ光らせて泳ぐ魚。そんなもののに、誰がなれると言うのだろう。きっと、彼が一番それを理解している。その晩に見た鮎美は、冷たい水の中で息も出来ずにいるようだった。俺もそうだった。真っ黒な夜、生乾きの雨の匂いがする路地裏に溺れていた。手を取ったって一緒に沈むだけ。それでも良いと思わせる何かが、鮎美にはあった。
「なぁに、酔わせてくれんの?」
刃物みたいに冷たくて、いつだって突っ慳貪な言葉尻の彼が、ほろ酔いの足取りと同じような甘い喋り方をするのを聞いていた。それは天羽さんがよくする話し方だった。好きなんだな、本当に。別にそれは構わない。俺だって、咲葵のことが好きだ。彼女を大切にし、傷つけないように守っていきたい。彼女に嫌われては立ち直れないだろうと思う。俺が彼に求めているのはそういうんじゃない。
「僕、好きな人いますけど」
「その片思い、一人で泳いでいられるんですか。叶わないのに?」
「そんなことどうでも良いわ」
俺が手を離すと、彼は眼鏡を外し、整髪料で整えられていた前髪をぐちゃぐちゃにした。ネクタイを緩め、上目にほとんど睨んでるような目つきで俺を捕らえる。そう、その目だ。俺はその目が欲しかったのだと思った。
「そんなことは、どうでも良いんですよ」
来るなら来いとでも言いたげな目線に、俺はその一線を越えた。阿由葉鮎美という男の深淵に足を踏み入れてしまったのだ。
たおやかで、しなやかで、酷く美しく、冷たい炎のように揺らめく存在。それは確かに鈍く光る銀の鱗であった。けれど、鮎美は不器用な人間だった。片付けられてない部屋の中で、溢れた洗濯物に囲まれ、カーテンも開けずにゼリー飲料やバランス栄養食を食べて生きている。熟れた片思いを抱えて、嘘だらけ穢れだらけの俺との関係に身を寄せる。その様は傷に塗れていて、それさえも、俺には美しく思えていた。俺と彼とが作る世界は、いつだってヒリヒリと不健全な空気が充満していた。今にも壊れてしまいそうな危なっかしい温度は、クズでどうしようもない俺達を責め立てるようだった。何も考えなくて良い。生と死と愛と、シンプルに。裸足が床に置きっぱなしの鮎美の私物を踏むときに、堪らなく生を実感した。貰ってきた花の水を普段だらしない鮎美が取り替えているときに、堪らなく愛を実感した。鮎美を抱いているとき、堪らなく死を実感した。
朝になれば何食わぬ顔で会社で会う。俺には可愛い彼女がいて、鮎美には好きな人がいる。そんなことは、どうでも良い。正しいことも悪いことも知っている大人だけれど、そんなことはどうでも良かった。俺は誰よりも俺のことが嫌いだったのだろう。虚栄だらけ、承認欲求と、不安。そんなのも全部感じないくらいにまで、落ちて、息が出来なくなるほど駄目になりたかった。鮎美は俺がいないと駄目だから、と口癖のように言っていた。その言葉を聞いている鮎美の目に、首を締められていたかったのだ。