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碧眼の白いラグドール、と、戯れる黒髪の君。鯉都さんは甘えた仕草でショートケーキを食べながら、上目遣いに俺を見つめる。
「あれから、鮎美はどう?」
「まあ、なんとか」
例の一件があって以降、鮎美は死んだみたいになっていた。お節介ながら俺は彼をしばらく日当たりの良い自分の家に住まわせ、ご飯を与え、風呂に入らせ、毎朝決まった時間に起こし続けた。グラデーションのように日常が戻ってきて、鮎美は新しい自分の家でちゃんと生活をしている。危なっかしい夜遊びも、バランスの悪い食事も少しだけ改善したようだった。鯉都さんは鮎美の様子を聞きに、しばしば家に来るようになった。
「瑠人」
クリームのついたフォークを舐めながら、彼女が発する声はいつもより弱々しかった。俺は食べている手を止め、言葉を待った。頬杖をつくような姿勢、それからゆっくり手を伸ばし、ケーキの苺を俺の口に咥えさせる。甘酸っぱい香りがする。
「ありがとう。鮎美を助けてくれて。あたしは気の優しいあんたに、辛い思いばかりさせてるけれど」
彼女の指が唇に触れる。半分無理やり、苺を呑み込まされる。
「これからも鮎美を宜しくって言うわ。許してくれるでしょう?」
咀嚼をして、飲み込む頃には笑みが溢れた。何を今更。俺も彼も、誰だって、愛に魂を売って生きている。俺には春海さんの気持ちがわかる。定められた運命や、誰かと出逢って変わることとか、その中で傷になっていくものとか。そんなのは皆同じ筈で。鰊寧ちゃんの旦那さんは映画が好きな人で、幼少期から娯楽に触れずに生きてきた鰊寧ちゃんに、たくさんの世界を見せてくれたという。心を解し、視野を広げ、人生を豊かにしてくれる。彼は何年もの間、たった二人の世界で生きて、何を思っただろうか。何かが僅かにでも違っていたら、ただ幸せに二人でいられたんじゃないだろうか。その一線は、誰の足元にでもあると思う。俺だって、鯉都さんのためなら平気でその線を踏み越えるだろう。
鯉都さんは欠伸をしながら立ち上がると、CDコンポを操作して、音楽をかけた。目を瞑って『朝』に揺れる。鮎美が家にいたときに、持っていた本とCDを半分くらい貰ったのだ。鮎美は俺の会社を辞めてしまったけれど、学歴があって見目が良い彼のことだから、転職の心配は特にしてなかった。あの子はあたしと違うから、と鯉都さんはよく言っている。あたしと違うから、本当は何でも出来る。綺麗な水流で泳ぐことが出来る。でもそのやり方を教えてあげる人がいなかったから。幸せになんてなってはいけないわという言葉の裏には、傷つくことを恐れてる彼女の優しさがあって、鮎美はちゃんと愛されているよと言っても、まあ聞かない。鮎美は美しいよと言っても、聞かない。鯉都さんなら「知ってるわ」と言うし、鰊寧ちゃんなら「えー! ありがとー」と言う。黒猫のきょうだいはみゃあみゃあ鳴いて、それぞれ生きていく。日常は、続いていく。
ふらふら歩いて俺の後ろに回った。ふわりとピオニーの香りが包む。病的でありながら柔らかいその身が俺を抱きしめる。
「瑠人、愛してるわ」
そう言って、彼女は鞄を肩にかけた。慌てて玄関まで追いかけて行って、送って行くよと答えた。ぼやけて、このギリギリのライン上。一生懸命きれいに生きていたい。