『糜爛』⑤

nao_ser
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『婀娜』

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「なぁに、今日はやけに機嫌が良いじゃないか」

 瑠人さんはランチのおにぎりを頬張りながら、タブレットに向かう僕の横顔を見てそんなことを言った。濡れたような質感を持つ彼の瞳は、むしろ他の人よりも深い黒色をしているのに、僕には紫の紫陽花を想起させる。その、紫陽花が柔らかく微笑む。

「なんか良いことでもあった?」

「いいえ、別に」

 瑠人さんの問いにはいつも反射的に否定してしまう悪い癖が出て、気まずくなるが、気まずいという顔をすることも出来ない性で、口を真一文字に結んだまま既に終えたスケジュールの管理をスクロールして誤魔化す。つくづく僕は愚かな人間だと思う。品の良いカシミヤのスーツにパープルのネクタイ、ずっと昔に僕があげたポール・スミスのネクタイピンを身に着けている大人な彼は、僕と違い過ぎて悲しい。八個の年齢差は一生縮まらないし、中学生と大学生のときに出逢ってしまえば、その関係性は一生変わらないだろうことも解っているけれど。

「ふぅん」

 僕の性格を熟知していて、それ以上は何も聞いてこない。そういうところも大人だと思う。口角に僅かに僕を子供扱いして茶化すようなニュアンスを含ませつつも、ピンクの唇は決して余計なことを言わない。僕に触れてこない。そういうところも大人だと思う。狡い人だ。僕は辻褄の合わない子供なので、突っ慳貪な態度をとっておきながら、自ら彼に触れる糸口を探そうとしてしまう。

「……ちょっと、友達が出来そうなだけです」

「あら! へぇ、そうなの。へぇ、それは良かったねぇ」

 あまり感情の起伏が激しくないタイプの瑠人さんが、少し声を上擦らせて驚くのが嬉しかった。僕に良いことがあると、自分に良いことがあったみたいに喜ぶ。昔から、ほとんど不登校だった僕を誰よりも心配してくれていたのが瑠人さんだった。ギリギリ高校を卒業出来たときも、大学に合格出来たときも誰よりも喜んでくれた。僕に対してだけでなく、誰に対してもそういうところがある。良い人だと思う。良い人で、大人で、だから好きだった。

 ふと、スマホのバイブが鳴った。メッセージが一件。痺れるほどの甘さに支配された思考回路から現実に引き戻され、僕はどんな顔をしていただろう。瑠人さんに気づかれたくなくて、慌てて顔を背けながらメッセージを開く。

『話があるんだけど』

 溜息を奥歯で噛み殺す。職場内恋愛どころではない関係を職場内で持った僕に非があるし、向こうだってバレては困るから大事にはしないだろうが、簡単に話が片付くとは思えない。会っていなかった期間でこのまま自然消滅してくれるかと期待していたが。ああ、面倒臭い。ちらりと腕時計を見やる。後から約束を取り付けるのも億劫なので、昼休憩の時間を使って済ませておきたい。

「すみません、ちょっと席外します」

「え、鮎美、昼飯は?」

「要らないから大丈夫です」

「大丈夫じゃないだろ。昨日も食べてないし、身体壊すぞ」

「別に良いです。休憩明けまでには戻りますから」

 良くないだろぉ、と親心を振りかざす瑠人さんを無視することでしか平常心ぶる方法がなく、社長室の重たいドアから出て行く。タイルカーペットの廊下を進み、廉に呼び出された同階の端にあるまず誰も使わない小会議室へと向かう。

 窓が多く日当たりの良いこの会社は、それ通りにクリーンでホワイトなのが良いところで、巨大な会社とは言えなくとも"瑠人さんの会社"らしくて僕は好きだった。学歴だけは大層立派な肩書がついている僕に対して、もっと良い就職先があったのではと言う人もいるが、随分野暮な質問だなと思う。彼の会社が僕に見合わないのではなく、僕がこの会社に似合っていないのに。綺麗で空気の澄んだオフィスに僕は相応しくないけれど、厚かましく居させて貰っているのだ。

 カーテンの閉められた薄暗い小会議室には先に廉が待っていた。ハリのあるハイブランドのスーツを好む奴は、恵まれたスタイルを誇示するように脚を交差させて立っている。きっちりセットされた髪も、インチキ臭いウェリントンメガネも、世間的には格好良いの部類に入るのが憎たらしい。営業部のエースとして活躍する彼は、先輩には信頼され、後輩には慕われ、女子社員からの人気は高く、友達も多い。僕とは違う。様で、同じなのだ本質は。好きで好きでどうしようもないようなチンケな恋心に身をやつしているのに、真っ直ぐに傾倒することは出来なくて、そんなには綺麗になれなくて、ぽっかり空いた隙間を満たせられるなら毒でも塵芥でも何でも良くて。ハイブラで身を固め、小綺麗に整えて、外面と肩書だけは美しく。そうでもしないと中身が溢れるから。自分が一番自分のことが嫌い。だから、愛してくれる人を探している。愛とは何?と聞かれても答えられないくせに、そんなときには相手の口でも塞いで夜に誤魔化されていく。そういう二人だった。

「お待たせしましたなんですか手短にどうぞ」

「お前、態度悪すぎ」

「人のことお前って言うの止めた方が良いですよ、マジで」

 誰が入ってきてもすぐに気がつけるよう、もしくは奴が暴れても逃げられるよう、ドアを背にして煽る。廉の死んだ目に爛々とした怒りが次第に滲む。廉が壁寄りかけていた背中を離し、躙り寄る。改めて真っ直ぐ向かい合うと、僕よりも一回り体格が大きく姿勢も良いのに、内面の小ささを知っているから滑稽にも見える。その"滑稽"が僕という"滑稽"に迫って来る。

「怪我、治って良かったよ」

「何を他人事みたいに言ってるんですか。あんたが殴ったんだろうが」

「俺も悪かったし、お前も悪かったって。お互い様じゃんか」

「はぁ?」

 あまりの乱暴さに、思わず鼻で笑ってしまう。僕の反応に、廉の苛々が募っていくのが手に取るようにわかる。笑みを絶やさないのが白々しい。わざとらしく頭を掻きながら、更に躙り寄る。古の壁ドンでもしようかという距離になると、もはや少し懐かしくも感じるオリエンタルノートが漂ってきて、それがとても不快だった。僕が愛用するリリーの香りと混ざったときの、変な匂いを思い出してしまう。廉の肩越しに壁掛け時計を覗く。あと十分くらいこの問答をしなければならなそうで、大変面倒である。

「あんた、彼女いるんでしょう。僕に固執する必要なんてあります?」

「お前は俺がいないと駄目だろ」

 僕にとって廉は特別なんかじゃなかった。過去、似たような関係性になった相手に対して、殺してやるとまで思ったことは何度もあったわけではないが、僕はそういう血が流れている男ではある。特別なんかじゃない。酔いが覚めれば次に行く。ふらふらと、流れに溶けて生きている。廉にとって僕が特別だったとも思いたくはないのだ。もしも、特別だったなんて言うつもりなら、それは単に奴にとって、僕が不器用で出来損ないの存在として支配下に置きやすく、簡単に見下すことの出来る対象であるという意味でしかない。それが嫌だったわけでもない。僕は、歪んでいたってそれが愛ならば良いと思っている。僕が許せなかったのはただ一点、奴に彼女がいたということ。そもそも、やり直す価値もないような二人だった。名前をつけることすら躊躇うような関係性だった。

 お前は俺がいないと駄目、それはあんたの方だったんじゃないのか。そんなにも僕が良いのなら、一緒に落ちて行っても構わないけれど。僕を選ぶというのはそういうことだって、あんたは気付いていないのかな。馬鹿だな。いつだって得意気な顔をして、怯えているのもあんたの方。その端正な顔が崩れる姿を僕は何度も見てきたよ。彼女にはきっと見せたこと無いような、不細工な面を。でもそれが本当のあんただろう。僕もそうだ。だから、解る。だから、あんたは僕に縋る。

 捲し立てていれば廉は激昂しただろう。頭の中いっぱいの台詞を吐き出すことはせず、今回ばかりは奴を立ててあげることにした。

「廉なら幸せになれる。だから僕のことは忘れてくれ」

 そう言われれば口籠り、何も返せない奴はやっぱり臆病だ。ポケットに入れていたスマホが振動する。瑠人さんからの呼び出しだった。通知一つで、冷ややかな現実から甘い思考回路へ。さっきとは逆の変動を起こす。

「鮎、」

「天羽さんから呼び出されたから行くね。廉もそろそろ戻った方が良いですよ」

 何か言いかけた廉を無視して、無機質な扉は閉まる。途端、僕は明るいオフィスの廊下に戻って来る。思考回路のこっち側とそっち側をリアルにしたような一線だ。本来ならば僕は取り残した廉と同じ側にいるべきなのだろうけれど、それが過剰な甘さであったとしても、僕はこちらに居たい。ハリボテだって気づかれるまでで良い。瑠人さんの隣にいたかった。

 社長室まで向かう僕は、足音のしないカーペットの上で少し早足になっていた。