『糜爛』㉓

nao_ser
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 一度寝たら中々起きない彼女を助手席に乗せ、色んなところを走って、あの街に戻ってきた。ぼくは大きな夜空と海が見える駐車場に車を止め、隣で眠る弓月の頬を撫でる。寝顔はいつも純真無垢だ。海に濡れた月は綺麗だった。それをみていると、ぼくは動けなくなって、しばらくハンドルに額を押し付ける。

「ねぇ、ここは何処? お腹が空いたわ」

 かなりの時間が経っていたようで、彼女は目を覚ました。開口一番にまた強請る言葉を吐く。我儘な人だ。この状況で、どうしてお腹が空くだろう。憔悴しているのはぼくの方だけだった。言い出したら聞かないのが彼女だ。少し歩けば駅がある。急いで行けば大丈夫だろうか。

「わかった。ちょっと待っとってね」

 弓月の瞳は一つの宇宙のようで、ぼくには知らない銀河の光を放っている。好きよ好きよと言って、キスをする薔薇の色。何処まで染まれば良いだろう。もう、遅い。

 車の扉をパタンと閉め、ぼくはフードを被った。迷っている時間はない。

 食べても食べなくても変わらないけれど、少しでも幸せになってほしくて、弓月の好きなあずきホイップのパンを買う。

 駅の近くは人が多いから、顔を隠すように下を向いていた。その耳に、遠くからピアノの音が聞こえてくる。音の一つ一つは華やかな銃弾で、激しく、命が削れてく音が響いている。共鳴するように息が乱れ、ぼくは泣いていた。胸が痛い。滲む景色に、ひらひらと雪が舞う。メロディは流れるようにして迸り、鮮烈な激情を燃やす。美しく入り組んで、時折乱れるような情景が迫る。

 愛している。

 慟哭にも似たクライマックスが、ぼくをこの世界から切り取る。一人、この涙もあの青に浮かべば誰にも気づかれないよな。月の光は揺蕩うが、それすら呑み込むように水は流れる。

 音のする方を振り返る。離れたところから、その音を見つめる。ろくにお別れも言えないまま、ぼくはきみの幸せを願う。

 苦しくて立っていられない脚を必死に押し進め、走った。弓月と共に生き、共に死ぬことはぼくの運命であっても。そうだ。ただ、それだけだったのに。綺麗で激しくて、剥き出しの生命が輝く弓月が好きだったんだ。犯罪者でも、頭がおかしくても、好きだ。きっかけなんて何だって良くて、弓月がくれた衝動に後悔をしたことなんて一度もない。走って。音色とは反対の方へ、走って。燃えて、盛って、燃えて、そのままいなくなれば良いな。ああ、あれは『ラ・カンパネラ』。ああ、もう苦い唾液が喉を通る。何処に行こう。何処に行ったって、ぼく達は二人だ。誰かがそれを不幸と呼ぼうが、それしか知らないぼく達には、たらればなんて意味は為さない。この広い星、弓月と出逢い、恋をした。素敵なことだろう。そうだろう。恋をするのは素敵なことだ。こんなにも心を突き動かすものなんてない。汚れも痛みも全部愛する。心を投げ売って、捧げる。果てまで、行こう。傘を差してあげよう。きっと、要らないと言うだろうけれど。水面に映った月のサークル。一緒に踊ろう。その手を取るのはぼくだけだろうから。弓月の前でさめざめなんてしないから。永遠の愛、その約束の代わりに。