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『瑕疵』
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「結婚する?」
聞き慣れないクラシック曲、食べ慣れないマカロンに唆されるように、俺は大事な言葉を簡単に口走っていた。咲葵の顔がぱっと明るくなって、本当に嬉しそうに頷いた。それを見ていると、もっとロマンチックなプロポーズをしてあげるべきだったなと反省したけれど、ハードルを上げてしまうと、きっと俺は決意が出来ないからこれで良かったのだ。
翌日、既に咲葵は色んな人に言い回ったらしく、俺達の話は社内全体②広まっていた。すれ違う人はみんな、おめでとう!と口々に言った。その中にはあいつもいた。
「結婚するんですってね。おめでとうございます」
自販機で缶コーヒーを買おうと金を投入した横から、勝手にいちごミルクティーのボタンを押して、鮎はそう言った。ちらりとその顔を見やるが、鮎は俺の方など一瞥もくれずにいちごミルクティーを口にしていた。鮎は今どきのイケメンというわけでもないのだが、その横顔はいつ見ても冷然として整っていた。俺はもう一度金を入れて、ブラックのコーヒーを購入した。カシュッとプルタブの音が鳴る。
「本当におめでとうなんて思ってんのかよ」
「思ってるってことにしておいてあげてるんです。黙って有り難うとか言っとけよ」
壁にもたれかかりながら、一瞬じろりと俺を見る。俺はこの人と一緒になっては幸せになれない。咲葵は愛らしくて、明るい性格の良い子だ。だから結婚しようと思った。それでも、俺は少しだけクラシックの曲名に詳しくなってしまった。好きではないけれど、覚えてしまった。聞く度に、鮎のことを思い出す。もう二度と忘れることは出来ないだろうなと思う。俺に勇気があれば違っただろうか。未練たらしくどろどろになっている。
「なぁに、幸せじゃなさそうですね」
「そんなわけないだろ。妬むなよ」
「ああ、妬ましいですよ。だから、あんたは幸せって顔しときゃあ良いんですよ」
あんたのことはこれでチャラにしてやるって言ってやりましょうか。と、鮎はいちごミルクティーのペットボトルを掲げて言った。コーヒーの苦みは増す。
「わかりましたか? この、クソ野郎」
ペットボトルを傾けて、鮎の喉仏が上がる。またも視線から外されて俺は、惑っていた。鮎は空になったペットボトルをゴミ箱に捨てると、缶に口をつけるだけつけてほとんど飲めずにいる俺のことなど構わずに行ってしまった。遠くなる背中。腰に沿ったスーツの皺。実にコケティッシュで、吐きそうだ。吐いて出るような中身も何もないくせに。
天羽さんと鮎が話しているのを見ていると、どっちに転んだって俺は天羽さんには勝てないなと思う。人の良い天羽さんをビジネスの面でクレバーに支えているのが鮎であり、単なる社長と秘書という関係だけには収まらない信頼関係がある。見栄っ張りで空虚な俺とは違って、天羽さんは真心に満ちている。天羽さんみたいなタイプのニンゲンは昔から苦手だった。敵わないとか、負けるとか、そもそもそんな陳腐な勝負の土俵に乗ってくることもない人だからだ。
「廉?」
「ん、ああ、咲葵」
「さっき阿由葉さんとなんか話してなかった? 珍しい」
咲葵は俺が鮎を嫌っていると思っている。何というか、あながち間違いではないのだが、本当のところは絶対にバレてはいけないので言葉を選ぶ。彼女は悪く言えば馬鹿であり、良く言えばピュアな性格で、そういうところが良いところだ。普段なら適当に見繕った言葉で簡単に騙せるのだが、今は少し余裕が無く、俺は鈍く反応を示す。
「あー、いや、なんかおめでとうみたいな」
「意外〜、阿由葉さんってそういうこと言うんだね。クールビューティ!ってイメージだったからさぁ」
「クールビューティっていうより、気取ってるっていうか、上品ぶるっていうか」
「ちょっと言い過ぎだよ〜。私、阿由葉さん推してるんだから!」
とにかく、いけ好かないんだよと言い放って俺は部署に戻った。苛々、悶々とする。固定電話が鳴り、慌てて余所行きの声にトーンを上げるが、ワン切りされてしまって更に腹が立つ。何もかも上手く行っているようで、何にもかも望んでない方向に進んでいるような気さえする。そもそも俺は自分の望み、理想なんてのもあやふやで、もう後戻り出来なくなっていることに気がついてしまった。こんな筈ではなかった。阿由葉鮎美と出会ってしまった、そのことだけが俺の人生を狂わせている。