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カップとグラスとソーサラーと、円が三角を描いて並ぶ。いつもは二人で向かいって座ることの多い席で、今僕の前には妹とその夫が座っている。僕はフルーツアイスティーのポットを傾け、アフターヌーンスタンドからマドレーヌを取って口に放り込む。姉に連れてこられたこのカフェに、僕が我が物顔で妹を連れてきたのが先月。夫婦で行けば良いものを、何故だが僕も誘われて妹夫婦と三人でテーブルを囲んでいる。
「二人で来れば良かったのに」
「お兄ちゃんに奢ってもらおうと思ってさ」
「お兄ちゃんなんて今まで呼んだことなかっただろ」
咎めると、鰊寧は海外のアニメーションのように目を円くしながら肩を竦めた。隣で恵夢くんが小柄なりに姿勢良く、カプチーノを飲んでいる。流石にこの自由奔放な鰊寧と一緒になれるだけあって、根本が常識人とは言え、そこはかとなく肝が据わっている彼は、仲の良くない兄妹に挟まれても平然としている。
「おにいさん、素敵なカフェをご存知なんですね!」
「恵夢くんの方が僕のことおにいさんって呼んでるよね」
複雑なきょうだい関係の中でピュアな振る舞いをし続ける彼は、決して悪い人ではないのだろうけれど、接し方が難しいなと思ってしまうのが本音だった。突いてみても、恵夢くんは両手でカップ包みながら柔和な顔立ちを利用してこちらの毒気を抜いてくる。瑠人さんは彼のことをシンプルプリンだと喩えていたけれど、確かに万人に好かれそうな彼にぴったりだと思う。今朝、折角の休みの日に鰊寧に呼び出される形でカフェに向かった時点で不満があったが、二人分奢らされそうになっていることにもふまんかあった。おまけに鰊寧が、僕のヤバすぎる食生活を恵夢くんに見せたかったなどと言い始め、とても不愉快であった。元々人相の良い方ではない僕の不機嫌を感じ取ったのか、恵夢くんは今日は自分が出すからと言っていた。それは申し訳ないので結局僕が全部出すことになった。僕は彼があんまり得意ではないが、鰊寧のパートナーとしては理想的だなとは思っている。
「鮎美って基本一日一食だし、飲み物の他は栄養補助食品しか食べないくせに、週に一回狂ったように甘味食べんだよ」
「大丈夫なんですか?その、健康とか」
「大丈夫じゃないよね。死ぬでしょ。部屋も汚いし」
死んでも良いだろ、を飲み込んで、関係ないだろと返す。ばつが悪くなって、無意識にまたストローを噛んでいた。いつまで経っても、誰と出逢っても、どれだけ思考を巡らせても、大人になった今も直ることない癖として僕は自分を大切にする術を知らない。ガラスのティーポットの中、形だけ残ったフルーツの残骸のように生きているのであって、この二人にはわからないだろうなと思う。間抜けなものを見るような目も、心配そうに見る目も、余計なお世話でしかない。
くだらない会話をしている間にも、食器の上の食事はどんどん減り、この席を占領している理由もなくなってきていた。そろそろお開きを告げても許される時間である。隙を探すが、お喋りな鰊寧はいつまでもつらつらと喋り続けており、その道のプロかのように恵夢くんの相槌が打たれているのを聞くしかなかった。カランコロンとドアが開く音がそのやり取りを割って鳴る。僕らは反射的に入り口の方をちらりと見た。入ってきた男性と目が合う。コンマ一秒遅れて、その人が陽樹さんであることに気がつき、思わずあっと声を漏らした。向こうも同じようにあっと声を漏らしていた。
「何、友達?」
「そんな感じ……まあ、知人かな」
「そっか鮎美に友達なんていたことないもんね」
鰊寧の棘に反応する余裕もなく、陽樹さんが僕らのテーブルにやってくるのを見ていた。ダボダボした白いスウェットを着ている彼が、屈託の無い笑みを三人に平等に向ける。僕と正反対の様子に、鰊寧が訝しげな顔をする。本当にこの人と知人?と言いたげだが、そんなのは僕が彼と出逢ってからずっと自分でも思っていることだから、そう思うことは無理もない。
「こんにちは。奇遇やね」
「こんにちは。鮎美のお知り合いですか?ほんとに?」
無理もないけれど、僕が挨拶を返すより先に割って入ってそんなことを言うのはあまりに不躾だろう。肝を冷やしている僕を他所に、しかし、陽樹さんも動じない。更に恭しい笑みを浮かべたマスターがやってきて、自分と陽樹さんは古くからの知り合いで〜などと話し出す。恵夢くんはマスターの顔をじっと見つめて話を聞いている。どうやら動じているのは僕だけのようで、完全に蚊帳の外である。
「知り合いですよ、ほんとに。春海と言います」
「あたしは笹山鰊寧です。鮎美の妹で、こっちは夫の恵夢」
「兄妹で団欒してるとこ邪魔してごめんね。……ほら、うらちゃん行くよ」
マスターの背を押しながら二人はカウンターの方の席へ引っ込んでいった。鰊寧は終始怪訝そうな顔をしていたが、対照的に恵夢くんは甚く興奮したように円な目いっぱいにきらきらとさせていた。大きな声を出したいのを我慢して潜めた声をして、僕に顔を近づける。
「あのマスター、昔子役やられてた人ですよ。絶対。僕がいっちばん好きな映画に出てました。男性でウララってそういる名前じゃないし、絶対そうですよ。絶対!」
絶対と何度も念押ししてくる恵夢くんの熱量は見たことがないもので、僕は助けを求めて鰊寧を見るが、彼女は慣れているのか我関せずな態度で僕のマドレーヌを当然のように盗んで食べていた。うむ、やはり、この二人は夫婦としては上手くいくだろう。しかし、僕は苦手だ。恵夢くんは大のドラマ・映画マニアらしい。昔の僕はドラマも映画もほとんど見る機会がなかったので、彼の言っている映画はタイトルをうっすら聞いたことあるくらいのものでしかなかった。子役達がメインを張っていたらしいその映画は、特に主役の子の小学生とは思えない狂気的な演技が評判を呼び、かなり高く評価されていたらしい。
「的野宇良々は脇役といえばそうで、出演シーンも少なかったんですけど、めっちゃ良い味出してて、僕的にはMVPっていうか」
「そんな脇役のことも覚えてるって凄いね」
「恵夢は人の顔覚えるの得意すぎるのよ」
「主役の子だけは凄すぎて、役の印象しかないんだよね。名前も不思議と役名しか覚えてなくて」
その子役はその作品一つで数多の賞を受賞したが、それ以降は何の作品も出ていないらしい。更に、その唯一の出演作も夫婦であった監督と脚本家が交通事故死したことをきっかけに話題に上がることはなくなったという。全ての条件が揃って"伝説"の肩書を恣にした映画を愛しているらしい恵夢くんの熱気はしばらく冷めそうにはなかった。
「俺は人の顔全然覚えれないから羨ましいよ」
「おにいさんは多分、覚えようと思ってない系ですよね」
柔らかく突っつかれて、やはりバツが悪くなった僕は、丸い目四つに見つめられながら、最後に残っていた一口大のチョコタルトを咀嚼した。