1年ももうすぐ終わるので、少し振り返りを。育休があけ、働き出してからは、母としての私と、デザイナーとしての私の2つの人格を、行ったり来たりしていた。たまに妻になったり、子になったり、友人になったりするもが、平均すると1日のうちの数分かしかないと思う。なので、母とデザイナーの、2つの人格で、振り返ろうと思う。
まずは、母として。
k(子供)が一歳4ヶ月になった。日本語はまだ話せないが、様々な要求をつたえてくるようになった。
私の服をめくって授乳しようとする。親の食器を使おうと、皿やコップを奪う。ルンバをかけるように、親を引っ掴んで充電場所まで連れて行く。絵本を読むように、本を渡して、「ンッ」という。親の靴を部屋の中に持ってきて、外に連れてけと伝える。「バーン!」と言いながらスピーカーを指差し、音楽をかけるように伝える。
kは彼の好奇心の赴くままに要求し、それが受け入れられるなければ、ぐずったり、泣いたり、怒ったりとネガティブな感情であることを全身で表現する。
私や夫は、危険や長期的にリスクのあるものは、させないように対処する。
高いところに登りたがるが、落ちるリスクを考え、ある程度のところで降ろす。スプーンは渡しても、箸やフォークは目をつきそうなので奪いかえす。
親と子という、とても近くてとても小さい、密な関係と、毎日向き合っている。これが母としての時間である。生々しくて、ウエットだ。
次に、デザイナーとして。
今年の6月にデザイナーとしてゆめみに入社した。フルリモート標準のため、子育て中でも、他の人とほとんど変わらずに仕事ができることがとても嬉しかった。ユーザー体験を考えたり、画面を起こしたり、ワークショップをしたり、頭をフル回転させながら、手を動かすことが快感だった。
「インサイトはなんだろう?」「どういうふうに構造化できるだろう?」「どんな流れにできるだろう?」手元にある材料をもとに、整理して、抽象度を調整して、再構築していくのが好きだ。
産休・育休中は、ほとんどの時間を母としての自分で過ごしていたわけだが、デザイナーとしての時間ができることで、自分のことを内省したり、近況や愚痴を報告しあったりする時間ができたことも、幸せだった。夫にも「君は、仕事し始めてからのほうが自由な時間が多いね」と言われたが、そのとおりである。
その中で、一つ苦労していることがある。それは、「今、私は誰のためにデザインしているんだろう?」というイメージが、ぼんやりしていることである。
オンラインでの業務という特徴もあるし、toC向けのアプリ開発の案件への参加が多かったのもあるかもしれないが、とにかく、誰が使うのか、全然イメージできていない。いや、ターゲット属性やペルソナの情報はみているのだが、彼らが私の頭の中で動き出さない。ずっと(フリー素材で借りてきたイラストの表情のまま)にこやかに笑い、固まっている。生きている人のはずなに、静止画だ。
このユーザー像のアノニマスさは、kのいきいきとした状態と、私の中で、対になっている。
kは、うざいぐらい頭の中でも動き回る。「次にあれをするだろうな、こう止めないとな」というのがポンポンでてくる。当たり前のことなのだが、kに対して、定性調査でもっともコストの掛かることで有名なエスノグラフィック調査を、生後0日から1年4ヶ月し続けている状態である。
アノニマスユーザーたちは、頭の中で手足に紐で繋いで、後ろから引っ張って動かす。いかにも彼らがしそうなことを想像して。少しでも動いてくれたら、ばんばんざい。この動きは、別名:CanBe/ありうべき姿、と呼ばれる。kに言いまくっているような「それはしないで」「こうしてほしい」なんて意見(別名:ToBe/あるべき姿)は、この人形を動かしてるところを何回も再生しながら発想しないといけないので、かなり脳のCPUを食われる。
私は、受け取り手のリアクションばかり気にするタイプで、プロダクトへの興味が薄いため、ただワイヤーフレームを書いているときでも、アノニマスユーザーのことを考えてしまう。なので、脳がオーバーヒートする。作業途中に部屋を出たらkがいるため、人のレンダリングの精度をうまくスイッチできていない説も濃厚だ。
来年は、アノニマスユーザーたちが、私の頭の中で、少しくらい動き出して、勝手に話かけてくれるようになるといいなと、願っている。で、再来年くらいには、「そいつやばいから別れなよ」とか「そんな無理して頑張らなくても」とか、言えるようになってるといいな。