「あなたって親友いるの?」その矢は私にぶっ刺さるからやめてくれ
昔から友達関係を築くのが得意ではなく、小中学校時代にはいじめも経験し、一時期は親以外と全く関わらない時期もあり、それでも人と関わりたい気持ちを捨てられず「自分から関わりにいかないと向こうから関わってくれるケースは少ないんだ」と学んでからは関わりたい人に自分から関わることを頑張るようになり、それでもいまだに人とのコミュニケーションの全てにうっすら緊張しながら、未だに相手との距離感の取り方や言葉の言い回しに失敗を積み重ねながらも最近はインターネットやSNSのおかげで連絡を取れる人が何人か生まれ、そのほとんどが半分仕事に近いようなコミュニティ活動であったとしても、孤独を感じるよりは良いだろうと思いながら人とのつながりを保ち続けようとしている。
先日たまたま同居人に話しかけられたときに自分がPCで人とDMしていて気づかなかったときに、「インターネットの人間よりリアルの人間を大事にしろ」というようなことを言われ、話しかけられたときにすぐ反応できず申し訳なかったのはそのとおりだが、「インターネットとリアルの人間関係の違いってなんだ、わたしにはその違いなどないが」と思ったところからお互いの友人関係について議論していたら最終的に「あなたって親友いるの?」と言われてぶっ刺さって死んだ。
いわく、小中高からの友人のほうがその他大勢の知り合いより大事な「親友」で、7人ぐらいいるらしい。彼らとは「なんでも話せる仲」らしい。なるほどその感覚はわからなくもない、わたしも小中高からのつきあいの友人も数少ないけれどいて、たまにしか連絡をとらないけれど相手が私を切ろうとしない限りはたぶん今後も付き合い続けることはするんじゃないかと思う。でも彼女らを親友と呼んでいいかわからない、おとなになってお互い忙しくなってから遠慮して、たまにしか連絡が取れなかったし、私達を取り巻く環境はずいぶん変わってしまった。今カナダに居るわたしと日本にいる彼女たち。会って話せたとして、生活環境が違う中で、すべてを彼女たちに明け渡し、愚痴を彼女たちに聞いてもらうことが果たしてできるのか。いま、私にとって、身近な話題ができたり悩みを聞いてくれるのは、同じ国に住んでいたり同じような仕事を持っていたりその仕事につこうとしていたりするインターネットの同志たちなのだが。
まあでも高校の頃は、その子達はとても仲の良い子たちだし親友と思っていたし、そのうちの一人の子と、ある日二人で撮ったプリクラに彼女が「Best Friend」というスタンプを押してくれた時めちゃくちゃうれしかったのは覚えているけれど、自分から彼女らを親友だと公に称するのは憚られた。相手がそう思っていなかったら悲しいからだ。親友関係とは、日本における恋人関係のように宣言からはじまるものではなく気づいたらその関係になっているものであるし、気づいたらそうではなくなっていることもあるものなのだ。お、と考えると、日本における「親友」関係は、北米的パートナーシップに似ているのかも知れない。わたしは北米の人とパートナーシップを築いたことはないけれど、どうやら北米のパートナーシップは宣言無しに始まることが多く、相手が他人に自分をパートナーだと紹介したことで初めて自分たちの関係に気づくことが多いらしい。
思い返すのは、むかし親友だと思っていたうちの一人の子が自分の知らないうちに恋人を作って何ヶ月も経っていたことで、そのとき凄くショックだったのを覚えている。そうかわたしが親友と思っている子でも恋人を作ったときに話してくれないんだ。そのようなショックな出来事や、その他様々な出来事により「パートナーシップと違い、一人の子に入れ込む友人関係はあまり幸せになれないかもしれない」と考えるようになり、それ以来は人間関係は「広く浅く」のほうが傷つかないのではないかと考えるようになった。もちろん親友と思えるような人がいたらこれ以上嬉しいことはないが、自分から「XXさんは私の親友だ」と思うことは、高校卒業後はできなくなっている。とはいえ、「広く浅く」が得意はタイプではないので、どうしても「狭く深く」になりがちなのだが、「一人の人に深く入れ込みそうになっている自分」に気づいたらできるだけセーブするようにしている。あるいは、誰かに送ったメッセージの返事が返ってこないことを気に病んでしまうことが人生で何回もあるし今日もあったのだけど、そのときには他の人との軽いコミュニケーションを行うことでメンタルを保ちたくなるので、そんなときに関われるゆるく肩肘張らないつながりをこれからも持っておきたいと思っている。(ちなみに、返事がなかったときに落ち込む癖、昔からあるけど、そんなこと言っても自分もやらかしたことが過去に何回もあるからね!!全然人のこといえない!!!それを思い出して「だれしもやるものだからなあ…」と思ってはいるのだけれど、そのことを考えてもメンタルは復調せず自己嫌悪ループに入るだけなのであまり考えたくない…過去にメッセージを途切れさせてしまったみなさん本当にごめんなさい)(最近、本当にだれも関われる人がいないときにランゲージエクスチェンジをひらくのがメンタルに良いということに気づいた。なぜかアプリを開いただけで誰かからのメッセージが来て、しかも大抵の場合相手もゆるいつながりしか求めていなくて、殆どの場合は挨拶とか簡単な言葉しかかわさなくて、でもそれだけでも人と関われたことでメンタルを多少回復させることができるという、もはや私のメンタル回復に欠かせないシステムだ。しかも、返事が来なくてもメンタルへのダメージが少ない。不思議。)
「自分のすべてを理解してくれるたった一人の人間、はこの世にはいない」。これは母が私に教えてくれた教訓である。母も私と同じで人間関係が得意なタイプではない、友人もどうやら多くはないようだ、私とは母はお互いにそんな傷を舐め合っていて、もしかしたらお互いが唯一無二の親友ですらあるのかもしれない。家族が親友というのもなんだかはたから見たらおかしな話ではあるかもしれないのでこの議論は一旦脇においておくが。母曰く、「ひとりの個人につき趣味も悩みも様々なベクトルがあり、完全に自分と同じ人は存在しない。AさんにはXという趣味や悩みの話をし、Bさんにはまた違うYという趣味や悩みの話をするしかない」。これは私も腑に落ちて、一人の人に依存するよりはこの方式で友人関係を続けていこうと思うようになり、それからのほうが友人関係で深く傷つくことはなくなったと思う。この方式だとたしかに誰かに対して「親友」と呼べるような関係を築くのは難しいのかもしれないが、このやりかたが私や母には合っているのだろう。
でもおそらく友人関係については、このように深く考えないほうが幸せなのだろう。同居人も「小中学校の友達は親友」と言い切っている中で、疑い深い私なんかは「本当にか?違う国に住みはじめて長いこと経っていても相手から未だに継続して親友と思われ続けていると信じ続けられるのか?その根拠はどこから?」などと考えてしまうのだが、そんなことを微塵も思っていなさそうで幸せそうだ。こんなふうに友人関係について深く悩んでいる私は幸せとは思えていないのが悲しい。私もそうなりたいと何度も思ったが、根本から性格が真反対なので無理なことは悟った。いじめられて人間不信になった経験がないことは人格形成に大きく影響していそうなので、私は生まれたときからやり直さないと無理だろう。しかし、これからも私は友人関係にもがき、苦しみ、生きていくのだろうが、そんな中でも少しでも生きやすい道を見つけ出すために、悩みを拾い、向き合い、徐々に人間世界をうまく泳げるようになっていったら良いなと思っている。そして、こんな悩みをインターネットに放流することが、同じような悩みを抱えている誰かにとって少しでも励ましになったら良いなと思っている。