2023年末にアイドルファン界隈で大盛りあがりだったオーディション番組Produce 101 Japan The Girls(日プ女子)を見終えた頃、番組内で歌われていたSEKAI NO OWARIの楽曲『Habit』の歌詞と、番組内で使われていた昨今流行もしているMBTI性格診断について私はいろいろ考えを巡らせたので記事に書いていた。しかし書き終わったあといつもどおり「やっぱ公開するのやめよ」で未公開で止めていたら、QKのふくらPが昨日ちょうど、セカオワのHabitとMBTIと分類本能に関するツイートをしていて、うわー私以外にもセカオワのHabitとMBTIを関連付けて考える人がいた!しかもふくらPが!と感動してしまった。それで、下書きしていたこの記事をやっぱ公開しようとおもって公開しています。
(ところで、QKの有料フォロワークラブScholeのブログにもふくらPがMBTIと分類本能に関する詳しいことを書いていてそれもとても示唆に富んでいたので、というかそれ以外にもまじで価格以上の価値ある記事ばかりなのでみんなQK有料ブログの会員になったほうが良いですこれはがちです)
『君たちったら何でもかんでも分類 区別 ジャンル分けしたがる』
『ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか』
『隠キャ陽キャ?君らは分類しないとどうにも落ち着かない』
『すぐ世の中 金だとか 愛だとか 運だとか 縁だとかなぜ2文字で片付けちゃうの』
SEKAI NO OWARIの『Habit』という歌にこんな歌詞がある。わたしはセカオワに詳しくはないのだが、2023年末にハマったオーディション番組 Produce 101 Japan The Girls(日プ女子)で、参加者最年少の2人組「チームマンネ」によってカバーされていたためこの曲を知り、それ以来この歌詞について考えている。
いっぽうで、同番組においては様々なラベリング、グルーピングが行われていた。代表的なのは、参加者全員の性格をグルーピング・ラベリングしている「MBTI性格診断」だ。
正確にはMBTIらしきもの、だが以下便宜的にMBTIとする。ここで「らしきもの」と言ったのは、番組で使われていたMBTIや、現在日本と韓国を中心に流行しているオンラインで診断できるMBTIは、本家本元のものではないからだ。以下すべてを「似非MBTI」として読んでもらっても良い。
MBTIについては2020年頃に流行したときに自分も軽いノリで調べた。その後、2022年にオンライン大学(UoPeople)の一般科目(Emotional Intelligence)の課題で、なんと自分のMBTIを調べようという課題があったのでやってみた。やっている時にさらに自分で深く調べたら、現在巷にはびこっているオンラインで軽く診断できるMBTIが本家のものではなく、本家から否定されているものであることを知った。本家本元のMBTIは、専門家による直接の診断が行われるものであり、オンラインで短時間でできる診断のことは認めていない。それを知ったときは複雑な感情だったし、なぜUoPeopleはそんな課題を出すのか?と疑問に思い、もしかしたらこれを理由にこの授業は信頼性の低い授業だと判断されうるのではともやもやして終わってしまったが、しかし私が人間関係に悩んでいた頃MBTIに助けられたのが事実であったため、それ以降もわたしはこれが似非科学であるとわかったうえで乗っかっている。ごめん(?)。でもわたしは科学者じゃないし研究者でもない、ただのそのへんにいる人間だから、ただのそのへんにいる人間としてそれを時々頼りにし、あるいは批判しながら、この記事を書いている。手軽にできるオンラインMBTI診断に対しこれだけの批判があってもなお人々の拠り所となり、信じることで救われる人がいるなら、それはなにか意味のあることなのだろうから、もうすこしこれについて深く考えてみたくなる。
MBTIは現在日韓の若者間でとくに流行しているらしい。自分や他者を理解するために手頃で便利なMBTI(らしきもの)あるいは様々なグルーピングを気軽に消費し、人間関係に活用したり、ときにそれに頼りすぎて亀裂を起こしたりしている。
たしかに人間は日々生きていて色々なものを分類している。『Habit』の歌詞にもあったように、子供や学生はそれこそクラスメイトや身の回りの人間や自分を指して陽キャだ陰キャだ、おとなになっても「人生で大事なのは金だ」「愛だ」と、老若男女様々なことを単純化、グルーピングして生きている。
チームマンネが歌っていた『Habit』の歌詞を聞いた時、たしかに私も、正しいか正しくないかに関わらず日々色々な物事をラベリングしたりしながら生きているんだなあと思い、ふとなぜなんだろうと思った。
人がなにかを分類したがるのは、どうやら本当に「本能」らしい。というのも、分類したりラベリングしたりすることで脳のリソースをセーブできて、いろいろなものを素早く処理することができるからだ。ちなみに分類学(taxonomy)はそれ自体が一つの学問の分野になるほど深淵で奥深いらしい。
私自身、正直、自分に自分でラベル付けしてどこかのクラスに収まる瞬間は一番ホッとしてしまう。過去には「コミュ障」「真面目系クズ」というラベルを自分に貼っていたが、その単語を知ったときは、言語化できない生きづらさを抱えていたところから自分にフィットしたラベルを見つけられたことで「あ〜自分にも収まる箱があったんだ」となぜかホッとした(現在ではこれらのラベリングは自分にネガティブな気持ちを与えてしまうので、意図的に使わないようにしている)。
最近はファッションにおいてもパーソナルカラー診断や骨格診断が市民権を得てきており、センスがないわたしはこれらの診断結果にたいへん頼っている。イエローベース、パーソナルカラー秋、骨格ストレートと診断されてからは自分が服や小物を選ぶことが簡単になり億劫さが減ったし、それら診断結果に合わせて服や小物を選んだら、基準が持てなかった頃より似合っているスタイルが選べるようになったと感じた。
また、私は自分の性格が少し変わっていると思っていたが、MBTIでINFPという箱に入れられたときに「自分と同じような性格を持った人が世の中にも自分の他に多くいるんだ」と思うことができてホッとしたし、自分と同じ箱に入った人には親近感が湧いた。
自分の性格について、自分で100%言語化できていなかったが、INFPの説明を読んだら、これまで言語化されていなかった自分の性格が他者によって言語化されていて自己理解が深まったように感じた。また、MBTIで自分が持つI(Introvert、内向的)の真逆の性格となるE(Extrovert、外向的)と診断された人を知っているし、またIだけ同じの他が正反対であるISTJと診断された人が身近にいるのだが、今までは、なぜ彼らがそのような発言・行動をするのか到底理解ができない事が多かったが、Eの人の説明書きを読んだり、STJの人の説明書きを読んだりすることで、なるほど彼らはこのような原理原則に基づいて行動しているのかと一歩寄り添えたように感じられたし、それらの説明が彼らとうまく接するときに役立てられると感じた。
ラベリング、グルーピングを人と仲良くなるきっかけ、自己や他者をより理解するフレームワークとして使うのはいいと思う。あるいは、冒頭にも言ったように日プ女子は練習生96人のMBTIが公開されていたが、露出のまだ少ないアイドルの性格をMBTIから想像するなどというのは本当に単純なエンタメであり、消費している側はただただその楽しさに乗っかることができる(乗っからせてもらっている)。
しかし他者の勝手なラベル付けや偏見の材料として使ったりするのはどうなのか。たとえば最近では、あまりにMBTIが流行っているためにMBTIを好きではない他人にたいして診断することを期待したり、MBTIを使って気軽に偏見をシェアしたり特定のMBTIの悪評を流したりするインターネットの色々な情報が目につくようになってしまった。
私はグルーピングは人間を助けると思っているが偏見は人間を助けないと思っている。その違いは何なのか。私はグルーピングはフレームワークだと思えばいいと思っている。Webやソフトウェアのフレームワークのように、フレームワークはあくまでも指針、コンパスであり、そこからはみ出る部分も収まる部分もある。すべての人間がフレームワークどおりな訳がない。もし仮にそうだとしたら世の中の性格が16種類しかないことになってしまう。世界には60億人以上の人間がいるというのに。
MBTIにしろ他のどんな性格診断にしろ、あるいは世の中のどんなグルーピングにしろ、0と100はめったに存在しないと思っている。世の中の事象を自然言語のみで数値を使わず0と100を正確に表現することは極めて難しいと思っている。なんなら、0と100が本当に存在するのは数学の世界だけだと思う。世の中で「○○は△△だ」と断定されているもののほとんどが80~99.99%の確率でしか無かったり、「○○は△△ではない」と否定されているものでも0.01~20%ほどの確率で起こったりしていると感じる。
私はMBTIを知る前に内向型・外向型という概念を知ったけど、その時も、自分のことを内向型とは判断したけど、「100%内向型ではないな。外向的な部分もなくはないから内向的な要素70%外向的な要素30%ぐらいではないだろうか」と自己分析した。そして「おそらく世の中に100%外向的な人も100%内向的な人もいないだろう」と考えた。それを考えれば、MBTIはさらにパターンが増えただけだが、自然言語で定義されている以上、どの要素も100%の人などなかなかいないだろうし、特定の性格パターンに「100%」マッチする人など想像上の人物でしか無いと思う。
自分で自分をグルーピングすることは一定程度自分を理解する助けになることもあるが、自分を殻にこもらせる原因にもなる。自分はこういう性格だと決めつけてかかって新しい挑戦をしづらくなるかもしれない。しかし100%性格診断などで提示された通りの性格の人などほとんどいないし、その殻からはみでても問題など何もない。他人をグルーピングする際には、心のなかで指針として使うだけにして、そのグルーピングやラベリングを絡めた発言には慎重になった方がいいと思う。(似非)MBTIのサイトですらも、あくまで情報を参考程度・手助けとして十分注意して使うようにとの注意書きがあるぐらいなのだから、個人が気軽にSNSなどで「INFPの性格は○○だ!」などと発信するのには危うさを感じるし、ひどい偏見を振りまいているように思う。
でもわたしはMBTIに助けられてもきた。たとえば、仲良くしたい人が自分とかなり違う性格だと感じるケースで、相手がすでにMBTI診断を行っていたなら、おそらく私はそれを参考にするだろう。仮に私の周りに、ESTJとオンライン診断した人がいたとする。私は彼女の内面をよく知る前にSNSなどで彼女の診断結果を知ることができる可能性があり、その場合彼女を知る最初の一歩として私はそれを頼りにする。私は彼女を理解するためにまずESTJの基本的な情報・性格を改めて調べるかもしれない。なぜなら自分とおそらく性格が違う面が多くあり、彼女を理解するためのヒントが頭の中にはない・少ないからだ。私はESTJの説明を読み、彼女と同じMBTIを持つ人の性格の傾向を知ろうとする。仮にESTJが好むコミュニケーションスタイルが自分の普段使っているコミュニケーションスタイルとは違うものであると紹介されていれば、彼女と接するとき、他の人と接する接し方とは違う方法にするかもしれない。
しかし、それをもって彼女を決めつけるようなことはナンセンスだと考える。おそらく彼女自身が診断したとおりならESTJの性格とマッチする部分は確かに多いのだろうが、相手と深く話していけば、それと違う点もいくつか見つかる可能性が大いにある。自分が想像している相手と実際の相手の言動に齟齬があると感じたら、そのときは「え、あなたはESTJなのにこうなの?」などといういいかたをせず、「あなたはこういうときにはこうしたいの?」などと、目の前の相手に直接確認するべきだろう。分類や診断は最初の取っ掛かりとして使うことはできるが、相手や対象を深く理解しようとすればするほど分類は役に立たず、目の前の相手や対象をそのまま受け止めることが必要になってくるだろう。
冒頭に書いたSEKAI NO OWARIのHabitには『自分で自分を分類するなよ壊して見せろよ そのbad habit』という詞がある。
私は分類本能とともに生きていて、おそらくこれからも完全にラベリング、グルーピングから逃れることはできない。これからも自分のことをラベル付けして「私はXXだよ」と言ってまわるかもしれないし、脳を整理するためにこれからも各種診断などにお世話になることがあるように思う。MBTIの流行が終わったら、また新たななにかの流行に頼ってしまうかもしれない。しかし世の中は分類されたものが全てではない。MBTIにしろなんにしろ、所詮特定の人間の特定の思想に基づいた分類法でしかない。簡単なことではないが、目の前のものごとを先入観なく受け取ることができるようになれば世界は広がるし、自分の殻を破ることができるようになるのだろう。