覚悟って、ある種のポジショントークなのではないか。覚悟を武器に自分はがんばったんだと話す人は、「私が東大に合格したのは努力したためだ、みんな努力すればいいのに」構文と似たものを感じる。要はバイアスに気づかず、覚悟という神聖化された抽象度の高いものを理由にするのだろう。あとはマウンティングの欲求から武勇伝を語りたくなる状況と同じ。偶発的に得た資産による成功よりも、覚悟によるお涙頂戴ストーリーの方がウケがいい。
少し方向性を変えて、「覚悟がある人じゃないと社長業は難しいか」という問いはどうか。おそらくNO。高いモチベーションがないと社長業がつとまらないのはおそらく確か。だが、そのモチベーションは、覚悟よりも、生物的なモチベーション構造に起因する気がする。金が儲かるは短気的なモチベート要因だが、人の上に立つのが好き、物事を決めるのが好き、など、社長業がモチベーション構造によい影響を与える人は、高いモチベーションを維持できるのだろう。が、そこまで言語化できないため覚悟という言葉に変わる。
視点を変えて、覚悟を求められたケースを考えてみよう。「あなた、XXをする覚悟はあるの?」みたいな。本心で言えば、そんなん知るかよボケと言いたくなるが、一種の洗脳効果があるのだろうか。論理的に成功するか予測しづらい事象に対し、成功するだろうという安心感の担保として覚悟を要求しているということだろうか。とするとこの場合の覚悟は、なんの根拠もない「大丈夫」とほぼ同義だ。無意味な大丈夫ほど危ない言葉は無いし、パフォーマンスとしての大丈夫は時に最強の武器になる。使い所を考えよう。
結論。覚悟はマウントとパフォーマンスのツール。覚悟に対して不安を覚えている時は、対して意味の無い不安だと認知するようにしよう。