「宴も闌ですが」は「宴の一番盛り上がっているところなんですが」って意味らしい。
なぜこの話をしたかと言うと、自分の知識を見せるけることで弱者に鞭打つためです。もちろん強者に逆らうような馬鹿な真似はいたしません。
強者を打ち倒すときは正々堂々ではなく陰から鋭い一撃を打ち込むことにしています。ただし四半世紀も生きてきてその機会は訪れておりません。この鋭い刃の行く末とは。
ここでふと我に返って考えるのですが、このように論理の破綻した文章は面白いのでしょうか?僕は面白いなと思って書いていますが、書くのが楽しいのであって読むのはどうなんでしょうかね。
最近いろんな人、本を目の当たりにして文章や言葉選びの奥深さに気づきました。その結果、上記のような奇をてらうことだけを目的とした駄文が出来ているのですがこれがまた楽しいのです。
バスケやお絵かきも上手い下手に関係なく楽しめるものなので文章もそう考えれば良いと頭では考えていますが、腹落ちはしていません。
というのも、自分の行動に意味やメリットを求めているからだと思います。事あるごとにこれは何のためにやるのだろうかと仕事さながらに考えてしまうのです。これは傍から見ると大変生きづらそうなので考えを改めるべきだとアドバイスしているのですが僕は中々聞き入れてくれません。(マジ頑固でムカついています)
まあこうやってクレヨンで線を引いて回るのはいつになっても、媒体が変わっても楽しいものです。僕は一生落書き小僧でいようと思いました。
小僧で思い出したのですが我が一族では子供のことを〇〇坊と呼んでいました。僕は名前が「あ」から始まるので「あー坊」と呼ばれていました。
他にもひー坊などが居ました。お母さんやおじさん、おばさんもあだ名で呼ばれることが多くあだ名に慣れ親しんだ一家です。
そのせいか分かりませんが人にあだ名を付けたくなってしまう性分です。ただしネーミングセンスが終わっているのです。
しんや → やんやん
てつや → てつてつ
ひかり → カーリー
あなんとかさん(名前忘れた) → あっちゃん
周りが他の呼び方としているかつあまり仲良くない場合にあだ名で呼び続ける勇気は持ち合わせておらず結局定着しませんでした。
子供が出来たとして良い名前を考えられる自信がないので「ヌル」いった何も指し占めなさい名前をつけたいお気持ちです。それから僕が込めたメッセージを無視してのびのびと生きてほしいので何も意味を込めずに名前をつけたいです。音の綺麗さだけで決めても良いかもですね。
まあしばらくは名前を付ける機会はないので一安心です。