金という手段に恋する劣等感の塊

nash
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俺は最近まで、何でもない日に好きな人に高額なプレゼントを贈ったり、友人との外食で多少強引に奢ったりしていた。そんな俺は所謂「与え過ぎる人」だった。あまりにも極端で、未熟だった。

時は遡ること4か月前、俺は他人にお金をかけることが人脈に繋がるということ知って、友人と遊ぶときはお菓子を買ったり、カラオケやショッピングで積極的にお金を使っていた。これらの使い方は全く問題にならなかったように思う。

俺はこの時、好きな人がいた。俺は結構なヤンデレだったので少しのことで相手に嫌われていないか精神的に病むことが多かった。だから自分が少しでも間違ったことをしたと思ったら、菓子折を渡すことにした。初めて菓子折を渡したときは、本当に彼女との雰囲気が悪かったため、もらった彼女が喜んで許してくれたことはとても嬉しかった。

以降も菓子折を渡していた。その理由は徐々に些細なものなっていき、恐らくはうざったいと思われるほどには菓子折を渡していた。今思えば、俺は菓子折に固執していたし、些細なことで謝るような自分は凄く情けなかったと思う。

好きな人とは別に、ある女性と2人でご飯に行く機会があった。きっと彼女は意識していなかったが、俺にとっては人生初のお食事デートだった。「初デートは奢る」という、女性との関わり方を調べて出てきた記事の文言を参考に、俺は強引に飯代を全額奢った。自分はいい気になっていたが、その時の俺を一言で表すなら「良いことをした気になって実際は相手の気持ちを全く考えていないクズ人間」がお似合いかもしれない。

次は誕生日プレゼントの話。人生初のお食事デートの相手への誕生日プレゼント。俺は「誕生日なら何あげてもええやろ」という頭お花畑な発想でその女性に17,000円するプレゼントを購入した。彼女がその時期に買ったコーデによく似合うもので、かつ彼女にとって需要があったであろうもの。俺は割とマジで考えてプレゼントを選んでいた。学生で恋人関係でもないのに、この高額のプレゼントは彼女を困惑させたはずだ。そしてここ最近、そのツケが回ってきている気がする。

しかし、今でも自分は「祝い事なら何あげてもええやろ」というお花畑的な思想が残り続けていて、相手が困惑するのをわかっていても、自分勝手に押し付けてしまう節がある。わかっていてもやめられない、他人に何かを与えることにどこかしら中毒性を感じてしまっている。きっとそれは、自分の劣等感にあるのだと思う。これまでしてきた行動はすべて自分の自信のなさに起因している可能性が高い。話術やカリスマで他人から好きになってもらえず、お金を代替手段にしている気がする。

今でも、自分が何をしているか、考えているかわからない。記事を書いている間は自分の性格を「だった」とか過去形で書いていたけど、今の自分なんて過去の自分とさして変わらないのかもしれない。恋愛を含めた人間関係で自分はあらゆる手段を用いて問題を解決していったつもりだった。しかし、少なくとも見かけ上は悪くなっていったし、それはもう過去のことで後戻りはできない。本当に問題の解決の糸口となるのはきっと自分の性格の改善にあると思う。

問題を解決する手段を模索していくうちに、必ず一つは広く一般的に重要である要素を知った。それは「冷静に分析しつつも前向きな考えを持つこと」であり、俺はこれから一層頑張って自分の考えを分析して良好な人間関係を築く。

よい報告ができるといいね。