近道はないということ

森津あかね
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『劇場版ハイキュー‼ ゴミ捨て場の決戦』を見てきた。めちゃくちゃ良かったです。とても良かったし、あれを劇場の大画面で見れてとても楽しかった。

思春期の頃から見ている作品だから、自分に引き寄せて考えてしまう部分もあって、ここでは少しそういう話を書いておこうと思う。

あまり明るくはない話なので、映画の楽しさに浸りたい人はブラウザバックしてください。

続けていくこと、なにかを成し遂げることに近道はない、という意味の言葉が最初の方と最後の方に出てきて、ああそうだよな、とずっしりとした重みと実感を伴って受け取ってしまって、個人的にすごく刺さる部分がそこだった。

私は、ずっと前に誰かがいることが、とても怖くて焦っていた。

なにかを始めるのに遅いことはないというけれど、私が始めた時点で同年代はもうずっと先を行っている、という経験が十代のころにたくさんあった。さらに、評価する人間に自分のことを酷評されたりもしていたので、とにかく早く上手くならなければ意味がないと思っていた。下手で遅い自分はここにいる意味がない、みたいな偏った価値観が根付いていたのだと思う。

今ではその分野から離れているので、酷評もなければ、同い年の卓越した技術におびえることもなく、穏やかに暮らしている。それでも、何かを習得する時に焦る癖が抜けなくなっているし、身に着けられないならその物事へは触れないほうがいいのだと諦めることも少なくない。諦め癖、逃げ癖がついてしまったなと思う。

だから、というと話の繋ぎ方がおかしい気がするけれど、諦めたり腐ったりすることなく(悔しさを覚えたり、自分に足りない部分は自覚しているけれど)まっすぐに目標へ走っていける日向がまぶしくて、少しだけ傷を刺激する。

私には続けてこられたものがあるだろうか。

文章だけは人に見てもらう機会も少なく、恵まれたことに高校時代や大学時代に褒めてくれる人もいたから続けてきた。でも、人に褒めてもらえるからという価値基準では続かないだろうということもなんとなく理解はしていて、他の価値というか、自分で認めてやれるようになりたいなと思う。

最近、人生は十年経つと伏線回収みたいな現象が起きるような気がしている。

十年以上前から好きだった小説がアニメ映画になったり、ハイキュー‼が劇場版になったり。生きているといいことがある、を知る機会が増えたような、そんな気持ちになる。

思い返すと、私は文章をかれこれ十年くらい書いているかもしれない。最初に二次創作みたいなものをきちんと書いたのが十年くらい前だった。短編ながらも、一次創作をきちんと完成させた経験は四年ほど前。一次創作でいうならばあと六年、書き続けることができたなら、地道に積み上げられたなら、裏切らないなにかを見つけることができるだろうか。

努力する方向性が間違っているかもしれない、という恐怖は未だにある。努力して、結局報われなかったら私はどこに行くのだろうと考える日も多い。

それでも、近道じゃない道を歩き続けることをあきらめたくないし、そこから逃げずに歩いてみたい。そう思わせてもらえる機会があったことを、忘れないでいたい。