自分の日記の好きなフレーズ・電子編

森津あかね
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五年ほど前から、アプリで気が向いた時に日記をつけている。それとは別に手書きのノートにも色々書き付けることが多い。ふとした時に読み返すと、どん底で苦悩していたり、好きなものに狂喜乱舞していたりする。愉快。いやまあどん底の時の自分のムーブは薄目で見ているんですが(引っ張られるので)。

自分しか読まない文章だから自分にだけ通じる言葉で文章を書いていて、かなり突っ走ってて良さがある。でもこれが全文公開されたら(自分の中で)社会的におしまいになってしまうなーと思いながらいつも読んでいる。つまびらかにされない良さがあるんだよな。

どうやら私には自分のオタク的な側面を定期的に見つめ直したい時があるらしく、架空のオーディエンスに向けた自己紹介を書こうとしたり、好きなものを羅列してひたすらそこに類似点があるのか見つめたりしている時がある。そういう時の文章は私にしては尖っていて、ある種、笑いを取ろうとするようなオモロを出そうとする部分もあるのだけれど、面白かったので読めそうな部分からいくつか抜粋してみた。ついでに読み返しながら今の私の文章も括弧で付け足した。

掛け算より足し算が好き(ずっと言ってる)

美形のお兄さんが好き、長髪だとなおよし(これもずっと言う。わかる)(しかし掘り下げが甘い。要考察)

強い恋愛感情よりもこいつと居ると息がしやすいみたいな関係性が見たい(言語化が上手すぎる、本当に私か? 私もそう思うよ)

目の前にいる輝く才能に肉薄していく秀才。が、どうしても輝く才に追いつけず「俺はここまでだな……」と憔悴した顔で自嘲気味に笑う様(前後の二文の繋がりが良すぎ。その憔悴しながら笑う顔ってセクシーでいいよね)

自分が空を飛べず、地を歩くことしかできないことを知っている人(詩的すぎて好き。そういう人が決意で静かに燃える瞳をしているところが一番かっこいい)

己が世界の一番ではないことを痛烈に自覚している男(痛烈に、というのがいい。世界の一番を視野に入れている時点でそこに辿り着きたい、あるいは辿り着ける可能性があったと考えているところを愛している)(世界の一番のことを考えなければ、そもそも自分がそこに立てないことは自覚できない)

改めて見ると、後ろの三つは同じ人のことじゃないですか? と思ったけど、三人とも違う人を指している文脈なのでたぶんこういうキャラクターにめちゃくちゃ弱い。これは三、四の記事から抜粋したやつなんだけど、手書きのノートにも似たようなものがあるから、探して抜粋したら面白いかもしれない。

こうやって見てみると、過去の自分に対して赤入れや講評を行うようなノリで対話してるのかもしれない。最後の三つに関しては読み返して共感しながら、さらにそこに好きな要素を継ぎ足しているので、私の萌えは樹のような成り立ちをしているのかもしれない。枝葉を継ぎ足して形を捉えていきたい。

好きなものを見つめる時やそれを文章にする時って、無駄を削ぎ落としていくような、彫刻を彫るような感覚だと思っているのだけれど、時間を置いて書き足すことで木のように広げて新しい視点も得られるような、そんな気分になる。今思いついて書いているから、あんまり整理されていない。もうちょっと時間を置いて熟成させたら自分の中でどんな言葉になるのかちょっと気になる。

冒頭でも書いたように、私は自分の文章を不定期に読み返す上に自分の文章のことをそれなりに気に入っている(書いている時はその自覚がまだ薄い)のだけど、こういうポエミーな側面を気に入っているところがかなりそれを支えているような気がした。ポエミーな部分というのはどうしても素面の人間に笑われてしまう(そういう経験も多少ある)ので、大手を振って好き! と表明することにまだちょっと引け目はあるけれど。

ポエミーな側面のことは嫌いじゃないし、この引き出しをもっとうまく開けられるようになりたいから、今年は現代詩もちょっとやってみたい。でも現代詩のことなんもわからん。短歌や俳句は最低限のルールがあって、その上で独自の空気感を纏っているけれど、詩は空気感をそのまま置くような感覚がある。なんなら現代詩を読んだことがほぼない。

詩の書き方、みたいな詩人が書いたエッセイ集があれば読んでみたいけど、なかなかピンと来るものが見つからない。こういうのあるよ、があったら聞きたい。けど私が本当に読めるかどうかはちょっとわからない。すまない。それでもよければ、こそっと詩集やエッセイを耳打ちしていただけると助かります。

中学生の時に中原中也にハマって、高村光太郎へ行き、石川啄木と北原白秋を少しだけかじった感じの詩人遍歴をしている。この中で一番好きなのは高村光太郎。智恵子抄の時間の流れがとても好き。岩波文庫の高村光太郎詩集が最高。よろしくお願いします。