ただ、強制収容所やイスラエル-パレスチナ問題を背景にもつレヴィナスの言葉の重みに比べ、私が論文で「他者への倫理」と言うときの空疎さには、耐えがたいものがあった。いま・ここに生きている私にとって、「他者」とは誰なのか? それを問うためにはもっと具体的な地平で思考する必要がある。そのための導き手として私が選んだのが、日本の戦後文学だった。
(村上克尚『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』月曜社、p,375)
・院試用の諸々の資料の読み込み。明日には第1志望の研究科の口述試験を控えている。緊張してきた……。
・上の引用は読んだ資料のひとつである『動物の声、他者の声』から。とりあえず序章、終章とあとがき部分だけ。口頭試問でポストヒューマニズムの話に立ち入る可能性があり、とりあえず日近文でなされた動物論の具体例を把握しておきたいという目的で。こういう「(自分の言葉の)空疎さ」、「文学研究」の話に限らず、自己にとって外在的な要素の咀嚼によってテクストを紡ごうとしている人が総じて課題に感じる感覚だと思う。村上さんは哲学科の修士課程を卒業した後文学研究科に入り直して文学の研究をはじめたというなかなかハードコアな経路を辿っており、そうした苦労の末に紡ぎ出された思考の跡が垣間見える。著者よりは数回りぶんぐらいスケールが小さいが、哲学と文学の間をフラフラしている自分にとっても非常に身につまされる思いになった一文。
・資料をいろいろ読み込んだりしてるうちに言いたいことや知りたいことがたくさん見つかり、何より安部のテクストが面白すぎるので、今月上旬ごろには地の底に落ちていた研究のモチベーションもだいぶ復調してきた。そうすると今度は同人の原稿がヤバくなるんだけど……。今月なんも触ってないわ。