戦闘機が咽び泣く夏の午後 伸びた青草を握り手を切った
君がこぼした鼻歌をつかまえ こっそりガムにして今も噛んでる
すべての言語が消失した後 天国に飛べるQRコード
胸に抱きしめるがまだ使わずに 希望でイカれた反抗をはじめる
はじめた
(GEZAN「もう俺らは我慢できない」)
・GEZANの『あのち』と『狂(KLUE)』を最近よく聴いている。上の引用は『あのち』の収録曲でいちばん好きなフレーズ。(音楽素人の勝手な印象として)GEZANの歌詞、哲学分野でのジャーゴンを未消化で借用してるっぽい部分が所々で透けて見え、詩として見たときにやや荒削りに感じる部分もあるのだが、引用部分はイメージの高い喚起力とほどよく飛躍した語彙選択がいい塩梅でマッチしているように感じてとてもよい。
・卒論の関係で安部公房全集の全ての目次を端から端までざっと目を通す、という作業をしたのだが、その上で自身の書いたものを読み返すとまだまだ至らない点が多いなと改めて感じさせられた。本当にダラダラしている場合ではない。
・研究対象の作家の選択という観点とは別に、こと最近は(適切な表現になっているかわからないけれども)「虚構世界におけるイメージと”物質”性」の関係といったものに興味を持ちだしている。つい先日に「虚構世界における”イメージ”って、いま現にある世界(現実)における”物質的なもの”とそのまま対応関係にあるんじゃないの?」という思いつきが生まれてからずっと気にかかっているのだが、これを論理的に発展させようとしたときに文学理論ないし哲学体系ののうちのどういった議論を参照すればいいのというのがわからん。バシュラール? ニュー・マテリアリズム? (素人レベルの理解ではあるが、)バシュラールが詩的想像力における心的イメージのはたらきを解きほぐした理論を提示したのであれば、詩人として出発した安部公房のテクスト分析には大いに資するのではという気がしている。この点上手いこと消化できれば、『箱男』を含めた安部公房の読解に上手いこと援用できるだろうし、いろいろ論点もほじくり出せる気がしているのだが……。や、こんなの研究室の先生に相談しろって話ではあるのだが。
・なんでこんなこと突然思い始めたのかというと、最近急に詩を書いてみたいというモチベーションが湧いてきたからです。……というのはあくまで理由のひとつで、一番大きなものとしては(フィクションに携わる一個人として)自分が回している読み書きのサイクルや、それの基板をなす「空想」やそれを構成する「イメージ」といったものを実体をもつ「思考活動」として定式化して、その上で(しばしば「虚業」のそしりを受ける)文芸創作やオタクのコンテンツ鑑賞、ひいてはもっと広い意味での「フィクションに触れる」といった行為をどうにかして肯定できないか……という願望がある。こう書くとうっすら『イマジネール』っぽさもある気がするけど(ついでに何となく講談社の書籍ページ:https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000276013を覗いてみたら、ちょうどバシュラールの名前が挙げられている。というかブランショも『イマジネール』に反応してたのか……やっぱ郷原『文学のミニマル・イメージ』読まなきゃダメ……? 高いんだよなぁアレ……)、あれみたいな現象学的な分類というよりはもっと実際的な創作行為に即した形の研究の方に寄せていきたいとは思っている(そうじゃないと自身の執筆に応用できないため。現金な考えではあるが……)。
・みたいなことは思いつつも、じゃあその「虚構空間における”イメージ”と”物質”性(仮)」という観点で研究と研究を進めるとして、その上で安部公房を選ぶのは研究対象の選択として妥当なの?と詰問されるとどうしても言い澱んでしまう部分はある。「安部公房を読むのであればもっと政治的なコンテクストの中での位置づけを意識した方がいいよ」という院試の面接官の言葉が思い出される(ついでにその試験は普通に落とされた。ペーパーはそこそこ出来良かったのに……)。
・今日は5~10分程度で軽く書き上げるつもりが、思ったより時間を掛けすぎてしまった。早く寝るはずだったのに……(もう2時47分)