2月2日(『断片的なものの社会学』読み終わった)

nasub_i
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・『断片的な~』読み終わった。ふわっとした全体的な感想は昨日書いちゃったので、書くことがないな……。時計を捨てたエピソード、集積所でゴミに埋もれて、焼却されるのを待つのみの時計が中で時を刻み続けていて……という情景自体は美しいと思いつつも「可燃ゴミで時計捨てたんかい!」とつっこんでしまった。絶対にそういう話ではないのだが……。「笑いと自由」の章が(ゲド戦記からの引用を含めて)好きだったとか、マンションの屋上に段ボールの中に女子大生が隠れていたエピソードを読んで『箱男』を思い出したり、異性装者のブログを読みつつ「無徴」の存在になる(「ラベル」を無視すること)ことの困難さのことを考える語り手(「普通であることの意思」)のことを見てあれこれ考えたりと、個々の場面でいろいろ感じたものはあったのだが、「まとまった感想」というものを求められると昨日以上のことを言うのは難しいな……という結論。まぁ感想なんてそんなもんでいいのかもしれないし、そういう「個々の印象」的な思弁のありかたをこの書物の形式それ自体が肯定している側面があるようにも思う。

・「誰も、誰からも指をさされない、穏やかで平和な世界。自分が誰であるかを完全に忘却したまま、自由に表現できる世界。それが、私たちのみるである」(p.175、強調引用者)という表現があるが、これそのまんま安部が追求し続けた主題に繋がるじゃん!というようなことを思った。まさしく安部(特に「失踪三部作」以降)もああいうことが言いたかったんだろうと思う。

・「普通であることの意思」章では奇妙なまでに「それ(=異性装者と社会との関係にまつわる諸問題)について言及しない」ことがひとつの「情熱によって作られている」「作品」であるとされて、同時にそれは「箱庭」の中のみで可能になった「夢の実現」でであっ(て、そうでしか成立しえなかっ)たことが語られる。この社会というものがお互いが誰かを常に名指し把握する(=「ラベル」を貼る)ことで回っていて、社会がそうである以上は「ラベル」を引き受けることでしか「アイデンティティ」は成立しえず、そうであるがゆえに「無徴」の存在になることを希求することは常に「不快さに抗う闘争」という形態を取るほかありえない……という話をしているのだなと解した。「自同律の不快」のこととかも思い出される。ああいう「無徴」性を志向する書き手が「断片」としてしかテクストに表れなかったのも、それが「アイデンティティ」を拒否するがゆえに「連帯」から逸脱し、それがポリティックな形での集団を構成し得なかったゆえなのか……とか、昨今の「アイデンティティ」的なものをことに称揚しがちな潮流に忌避感を感じている自分としては、いろいろと思わされるものはあった。脳みそが足りてないのでふんわりしたことしか言えないけど。

@nasub_i
耐えがたいものがある