・院試のやる気がでない……。ペーパーテストが課されるのが今週末受ける一箇所のみで、しかもそこは第三志望ぐらいの研究科なので、よけいにやる気が出ない。もう面接対策用の資料の読み込みだけでいいかな……となっている。あとは前期受験の時の記憶に頼って……(日本語学の教科書ぐらいはかるく流し読みしといていいかもしれない)。
この世界には、おそらく無数のダーガー(注:アメリカの画家。死後に至るまで全く作品が発表されなかった「孤独」な画家として本文中で扱われる)がいて、そして、ダーガーと違って見出されることなく失われてしまった、同じように感情を揺さぶる作品が無数にあっただろう。(…)。
だがやはり、ここでもまた、もっとも胸を打つのは、ダーガーがそもそも「いなかったかもしれない」ということである。(…)「ダーガーがいなかった世界」では、ダーガーがいたかどうか、彼のやってきたことが報われたかどうかを、「私たちですら知らない」。知られない、ということが、ロマンチックな語りやノスタルジックな語りの本質であるとするなら、もっともロマンチックでノスタルジックなのは、ヴィヴィアン・ガールズを制作した本人が見出されなかっただけではなく、彼が見出されなかったことを私たちすら知らない、という物語である。
(岸政彦『断片的なものの社会学』朝日出版社、p.33-34)
・『断片的なものの社会学』を読み始めた。まだ序盤の方だけどめっちゃおもろい。「社会学者」を名乗る語り手によるエッセイに近い形式がとられているんだけど、一つ一つの「出来事」が豊かなイメージを持ったものとして放り出されつつ、それでいて特定の文脈に回収された「物語」へと結びつけることなく読み物として成立させられている点に、語り手のフラットかつ優しげなまなざしを感じさせられる。純粋な個々の「出来事」とそれの放つノスタルジックな美しさに黙々と殉ずる「物語」の担い手。テクストの一人の書き手としてのこういう「主体」像、いいね。自分もこういう風に出来事に接していきたい所存。
・こうした関心のもとに書かれたテクスト、「私小説の脱構築」の話とも繋がってくるのかな……という気もする。金原編『私小説』収録の論文を読んでないので多分に想像を含むんだけども。語るのは「私」でありながら、そこに投げ出されているのは純粋に偶然的な「出来事」と個々のそれらを享受する”のみ”の「私」があるだけで、これによってそのテクストは自己が自己に言及することで「物語」ろうとする「心情告白」としての「私小説」性から脱するのを可能にし、ひいてはテクスト生成の起源としての「私」性の偶然性(不可能性?)すらも明示させることで「私」を起源とする「私小説」の「脱-構築」たりうるわけで……みたいな。