・『壁とともに生きる』、結局まだ読み終わっていない。寝る前に進める分と、残ったら明日の午前中に終わらせましょう。午後は院試対策。
・そういうわけで『壁生き』はまだ途中。『砂の女』はじめ安部のテクストが天才的に面白いから、必然的に解説の方も面白くなるな……。現時点で一番興味深かったのは大江との対比の部分。大江の原風景が自然豊かな四国の地だったのに対し安部のそれは自然情緒的には貧しい砂漠であって、それゆえに安部の風景の創出には「想像」が大きく関わってくる……という指摘。これ両者の私小説との距離感のこととか考えるととても示唆的だし、その言及が(「想像」で世界や物語を構築するところの)漫画家から出てくるのもまた面白い。あと変形譚とギリシア的な多神教の世界観とを絡めるのも珍しいような気がする(先行論あるのか? あったらそれ読めてないな……)。本論と関係ない部分では、言葉の端々から著者の芸術や人文学に対する情熱と強い信頼とが感ぜられた。私はといえば人文学的な視点の価値や意義を見いだせていない(信頼できていない?)ので、いやはや……。価値を見いだせていないというか、うっすらと自分の中にある「人文学の価値」に対する懐疑を粉々に打ち砕けるだけの強固な論理や強烈な体験というものをまだ見つけ出せていない。かといって「実利的な価値」みたいなものに対してはそれ以上に疑わしくも感じており、それゆえに「無価値であるがゆえに価値がある」とか「そもそも”(社会的・経済的)価値”という視点それ自体が浅ましい」みたいな消極的な立場を取っている節はある。ウエルベックしぐさ?
・「強固な論理」の方に関してはカントとかヘーゲルとか読めばいいのかしら。
・「文学」くん、問うだけ問うて答えの方は読者に丸投げしてくる印象はある。
・Twitterの方に結構ブルスカのブルスカのアカウント作成報告や、なんなら投稿のスクショとかもぽつぽつ流れてくる。雰囲気よさげだしはじめたいのはやまやまなのだが、複垢作成の手段と非公開の設定が実装されるまでははじめる気にはなれない。まぁ前者は出来なくもないっぽいけど。
・鍵アカ設定がないと嫌なの、単純に自分の投稿が不特定多数に閲覧されうるだけでなく投稿に対する数値化されたフィードバック(いいねとかリポストとか)とうるさい通知が嫌というのも多少はあるけど、それ以上に「自分のフォロイーやリストが他者に見られる可能性がある」という方が嫌かもしれない。こことかでも「講読」の通知が相手にいくことを知ってからだれも講読できずにいるしな。いまのツイッターの鍵アカでも、自分のフォロイーのジャンルや傾向を分けるとおおよそ4~5ジャンルぐらいに分類されるんだけど、この区分ごとにコミュニティ同士の距離をできるだけ切り分けておきたいというか、「自分の趣味選好の種類が他者に筒抜けになっている」という状態がひじょうにストレス。
・自分はけっこう平野啓一郎の「分人主義」とか東浩紀の「観光客」的な発想に共感(どっちも肝腎の論考を未読なのですが……)をいだいていて、自分の所属しているコミュニティや状況に応じて開示する情報をある程度調整しておきたいし、そしてその「調整」を通してその都度その都度「私」的なものが遡及的に構成されていく.……という考えの方がとても性に合う。これ何でなんだろうな。両親の不仲とか母親のあらゆる対象に対する愚痴(祖父母とか会社とか再婚相手とか)を聞かされて育ったこととかと関係あるのかしら。