「抱きしめて、ぼくを抱きしめて。ほら、蟒が這ってくる。きみの爪先が大地の脈を踏んでるんだ」
「ああ、かまわないわ、かまいやしない! わたしは以前、山の林の中を跳びまわっていたんだもの、服も着ないで。ここは夜になると本当に寒いわ。あなたはどうしてこんなに長いあいだ生きてこれたの? ずっとこんな風だったの? 子供のとき、本当に泣いたの?」
(残雪・近藤直子訳「天国の対話」、白水社uブックス『カッコウが鳴くあの一瞬』p,88)
・残雪の『カッコウが鳴くあの一瞬』をちまちま読み進めている。シュルレアリスムの言語実験的な、というと使い古された形容にも思われるが、前文と後文の間のモチーフ連関の必然性の低さから感じさせる「意味不明さ」と、それを力業で接合させるコラージュ的な方法はシュルレアリストの詩によく似ているように感じられ、それが「小説」として提示されることで一つの奇妙な物語空間が立ち上げられている。軽く評判などをしらべちえると「中国版カフカ」みたいな紹介がされているらしい。ただ、あれらの作品と比べると、こちらの作品のモチーフの一つ一つは東洋的な湿り気を纏っているように思われる。
・某大院の出願資料の準備……のはずが、別の院と入試日程が被っていたことが判明したので、その必要がなくなった。希望順としてはほぼどっこいどっこいの第一志望と第二志望が被っていたので、非常に悩ましいながらも第二志望の院は諦めることにした(とはいっても本来の第一・二志望は夏季に受験した研究科だったので、つまりは今半期の間うんうん唸りながらしている、そしてこれまでにしたあれやこれやは全て第三志望以下のための準備ということになる)。
・思えば、自身の人生の中で「ペーパーテストが上手になった」という経験が一度も無い。いちおう中学~高2中期ぐらいまでは数学を一番の得意科目としていて、毎回それなりの好成績を収めていたのだが、あれはあくまで当時に受けていた「数学」といういち科目を修得するために必要とされていた一部の学的操作のうちに作業的な快楽を感じ、その快楽に身を任せたがゆえに”勝手に成績が伸びた”というだけであり、実際に「数学が楽しく感じなくなった」高3のあたりから成績がガタ落ちするようになった。そういうわけで「ペーパーテストを確実にこなすための技能」、すなわち「各単元を網羅的に理解し、あらゆる出題形式に沿った形で出力させられるように身体化させる技術」が身についたというわけではない。この”網羅的に”体得するための「技能」はおそらく「得意なものをどう伸ばすか」ではなく、「苦手なものをどう潰すか」の方にこそその勘所がある。その「苦手を潰す」プロセスを通すことこそが、その人自身の知的活動の臨界点を押し広げ、よりレンジの広く密度の濃い思考を展開させられるかへと直結するのだ。……といった諸々のことを身にしみて実感させられる機会が増え、そのたびに自身の至らなさを痛感させられている。