12月30日(ベケット「鎮痛剤」/小説と「驚き」/”Blindness and Insight”/今日の進捗と見通し)

nasub_i
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 なぜ出てきてしまったのだろう、誰といっしょにいたわけでもないのに。ほうり出されたのかしら、いや、誰もいはしなかった。巣窟のようなものが見える、地面には罐詰のあき罐が散らばって。かといってここは田舎でもないのだ。たぶんただの廃墟、町はずれの野原のなかの立ち腐れの娯楽場だろう。なにしろ野原はわたしたちの、いや彼らの城壁の下まで来ているのだから。夜になると雌牛たちは城壁の陰に風をよけて寝たものだった。わたしは漂泊の旅の途中、隠れ家をあちこちと変えたので人間の巣窟と建物の残骸との区別がつかなくなってしまったのだ。しかしそれはいつもの町だった。夢の中でこんなふうに歩きまわることがよくあるものだが、住宅や工場の煙で空の大気が黒ずみ市街電車が通っていくのが見えるようになると、濡れた草を踏んでいた足が突然舗石にあたるのだ。覚えている町と言えば幼年時代を過ごした町だけだ。もちろん他の街も見たはずなのだが、しかと肝に銘じてみてはいなかった。私が言うことは言ったはしから全部取り消される、結局なんにも言わなかったことになるだろう。ただ空腹だったからというだけのことだろうか、(……)

(サミュエル・ベケット「鎮痛剤」)

・一昨日だかの日記に「明日書く」といって後回しにしていた内容、結局書くのを忘れていたのを思い出した。ベケットの短編集を読んだ。「鎮痛剤」という短篇が面白かった。いわゆる「夢」を書いた小説(あれは正確に言えば「夢」ではないけれども)って、そこに描かれる事物やモチーフなどは非現実的であっても、語り手自身はひじょうに冷静というか、語りそれ自体は整序されてているがために「夢」らしさが抜けてしまうというのが難点としてあるけれど、ベケットのこれはその点が非常に上手いというか、あの混乱した語りの様相がかえって「夢らしさ」の巧みな表現に直結しているという印象。我々が夢を見るときに感じている「純粋な驚き」を喚起してくるというか。出来事の前に驚き困惑するところの語り手の存在がそこには放り出されていて、それは「夢」に対して驚き続けるところの我々のあり方と相似をなす。この点においてベケットの小説は「リアリズム」的だと思う。

・しかしこれ(というか、ベケットの散文)、引用するときにどこで区切るべきか困るな。引用部分を区切るという行為それ自体によってテクストから失われてしまうなにかが、ベケットの散文にはあるような気がする。いや、それは多かれ少なかれあらゆる「区切る」行為につきまとうものではあるのかもしれないが、ベケットのそれは特に顕著。

・(以前の合評会でストーリーの「驚き」を話題にしたとき、それはミステリー的な「期待」と「裏切り」の文脈として「どれだけ読者の予想を裏った展開を示せるか」といったストーリーテリングの巧拙の話と勘違いされた上にやや批判的に切り返されたことがあったんだが、そういうことが言いたかったんじゃないんだよな。自分の言い方が悪かったから伝わらなかったのではという反省点は挙げられるだろうし、実際あのときの自分の説明は下手だったけど。自分が言いたかったのはこういう「夢を見る」行為におけるような「純粋な驚き」というか、「期待」を裏切るのではなく「現実」の方を裏切るような表象の神秘性と、その神秘性がもたらす「意味」の発展可能性の話をしたかったのだった。)

・ド・マンの『盲目と洞察』、今日の今日まで『盲目と明察』だと思っていた。原題が”Blindness and Insight”だから、まぁ間違いではないのか? 筒井の『文学部唯野教授』だと『死角と明察』の訳を採用しているらしい。

・今日もほんの少しだけ原稿を書きすすめる。いや、今日の作業内容は「すすめる」というより「いじくる」と表現した方がより正確かも知れない。空白を文字で埋めると言うより、すでに文字で埋まっている部分にあれこれ手を加えるだけの作業しかしなかった。もっといろいろ着手する予定だったんだけど。「前日に想定していた作業量の2割分ぐらいしか進んでいない」ということが多すぎる。それは想定ではなくて夢想なのよ。

・とはいえ一本の進捗はまぁそれなりに進んでるけど、現状だと何をどう計算しても規定字数に収まりそうな予感がせず、困り果てている。というか一万字の小説一本に対してあれこれ盛り込みすぎなんだよな(オリキャラものになるから多少は仕方ないのだが)。

・次のSSFは小説を三~四本出すつもり、とここに書いたが、いま手を付けてている一本以外はほとんど何も着手していない。これに追加してゼミ用の課題も一~二本ぐらいあるな。この数の小説の原稿を同時に抱えたことないんだけど。大丈夫か?(まぁ明後日公開のコメティックのシナリオ読んでからじゃないと書けない部分もあるから、まだ焦る段階ではない?)

@nasub_i
耐えがたいものがある