・久々に昼飯にパスタを作った。ナポリタン……と言いたいが、残念ながら自分はナポリタンが苦手なので、大根パスタにした。すりおろした大根に和風ベースの味を加えて、炒めたしめじとツナを混ぜ合わせたもの。(写真を撮り忘れてしまった)。元々は小中の給食でよく出されていたものなのだが、味が気に入ってしまってよく作っている。
・シャニソンをやりこんでしまった。テクニカルレートがギリギリ24.80に乗りそうな位置だったので、レートを上げようとしてスコア上げに熱中してしまった。元々音ゲーをついついやりこんでしまう質なのもそうだし、レートのキリの悪い数字って綺麗な衣服についた油汚れ並みに気になるから、ついついムキになってやりこんじゃうんだよな。
・つい先日の合評会で、その講師に自分の小説の文体が「翻訳訛り」と表現されたのを思い出した。「小説の文体」という枠を超えてかなり示唆的な表現に感じられただったのでよく覚えている。小さい頃は「表現力」や「コミュニケーション能力」に難があると危惧されていたような子どもでかつその自覚もあり、「文学」的なものをそれなりに体系的に学び始めることで「コミュニケーション能力」の方も付随的に上達はした……と自認している。その「上達」はおそらく人間関係のコミュニケーションを「型」の「体系」として捉えるという経路を通すことでなされているんだけど、この「型」や「体系」が自分にとって外在的な(ものに少なくとも感じている)ので、それは自分にとって「外国語」のようなものである……という感覚は常にあったかもしれない(だから、自分の発話などで相手を不快にさせた場合などには、申し訳なさやふがいなさよりも「失敗した」「間違えた」という感覚が先立っている、ような気がする)。ふわっとした話になってるけど。その意味で(もっぱら社会でなされる日常言語に比べて)自分の言語が「訛っている」という感覚もあるし、その訛りが「翻訳」によるものであるというのはかなり鋭い指摘だったな。
・(上記の話、これに具体的なエピソードを付け加えられると他所でも使える話になる?)
・最近寝る前に瞑想をしているのだが、昨日瞑想中にとつぜん「自分の身体全体が部屋の空気に溶け込んで、世界と一体化する」という感覚が湧き上がってきて、びっくりしてしまった。あれが変性意識状態ってヤツか……
・でもあの感覚って、べつに普段の日中とかでも妄想の調子がいいときとかは似たような感覚になるような気がするな。意識の主体が「瞑想をしている自分」か「妄想のなかの登場人物」かの違いで。ことに「瞑想」に頼らなくても変性意識状態に入ることはわりとできる?
・そもそも「瞑想」って何をどうしたら瞑想になるのかって基準がよくわかんないんだよな。今やってるのは我流に近いそれで、「ベッドで横になる」「意識を呼吸をしている自分の身体全体と、自分の眼球が向いているまぶたの裏の色に向ける」「何らかの雑念が湧いたら、「今自分の意識に雑念が湧いた」と雑念それ自体を相対化する」という方法をとっているのだが、これが正しいのかどうなのか。