しょうもない人生!
(粗品、爆笑ヒットパレード)
「あの子が生まれたのはいつだったかしら」とアンヌ・デパレードは言った。
十人ばかりの労働者が店になだれこんできた。そのうちの何人かがショーヴァンと顔見知りの素振りを示した。ショーヴァンは依然としてかれらを見なかった。
「あの子が寝てると、夜分、庭を降りて散歩することが時々あるのよ」とアンヌ・デパレードは続けた。「柵のところまで行って通りを眺めてるの。夜は、そりゃ静かよ、ことに冬なんか。夏だと、時々アベックが幾組か肩を抱き合って行ったり来たりしてるわ、通る人ってそれぐらいのものよ。町じゅうで一番静かなところが気に入って、あの家が選ばれたのよ。そろそろ引き上げなきゃいけないわ」
(マルグリッド・デュラス、田中倫郎訳『モデラート・カンタービレ』河出文庫)
・(昨日の二本の日記を非公開にした。片方はそれを語るには事務的すぎ、もう片方はそれを語るには冷静さを欠きすぎていた。)
・【鏡界フィクションレイン】三峰結華を読んだ。何気に声優さんが変わってから三峰のプロデュースするのは初めてかも。あまり真面目にコミュを読み解く頭になってなかったのもそうだし、あまり声優方面には興味を持っていないから致命傷は避けられていたと思っていたのだが、やっぱり声質の違いから例の騒動の顛末とか、自身の内々の諸々のこと思い出されたりしてしんどかったね。思っていた以上にダメージを受けていたらしい。あんまり内容覚えてないや。声優さんが悪いわけでは一切ないんだけどね、てか24年にもなって初めてダメージ負ってるのなんて自分だけでしょう。みんな通り過ぎてる話ではある。
・声質の話で言えば、前声優さんのような猫なで声っぽさが抜けて、割りとクリアに透る声になった印象。知り合いは「クソガキっぽくなった」といった表現をしていたけど、どうなんだろう……。声質そのものを比較でみれば前声優さんの方が数倍クソガキっぽい声に感じるんだけど、なんというか、確かに前声優さんにあったような「裏表のありそうな性格の人が発する声」感は抜けたというか、確かにストレートに若い人が発する声っぽいのは現声優さんの方かも知れない。「クソガキっぽい声」は前声優さんだけど、「クソガキっぽい正確の人が発しそうな声」は現声優さんというか。そもそも現声優さんの声がクソガキっぽいってのがどれぐらいの共通理解になりえてるのか知らないけど。この友人別にめちゃくちゃシャニマスやりこんでる人ってわけでもないし。
・でもTLで言われてるほど違和感無いかって言われると、自分はそうは思わないかな。自分は「裏側を秘めてそう」な人というか、(本人が自覚的に「隠して」いるのであれ、またそれに本人は無自覚で自身の内面を把握しきれていない(未分化?)のであれ)「表の顔」のときに発する言葉選びや人間観の裏に底知れなさのようなものを感じさせてくる人間に興味をもちがちというか、「本当の自分(という通時的な概念的構成物)」とか「本心を抱く」という人間のありかたそのものに亀裂を入れてくるような強烈な予感をその言葉や立ち振る舞いの端々に感じさせてくるような人間に惹かれることが多い。だからいまは浅倉透さんとか鈴木羽那さんとか(ひいては八雲なみさん)に興味を持っていて、三峰結華さんにも同じ観点から興味を引かれていたわけだったんだけど、この「三峰」観がっ充分に適用されてたのって【それなら目をつぶりましょう】までか、贔屓目に見ても【NOT≠EQUAL】までなんだよな。だからそもそも自分の中では声優さんの変更以前に【NOT≠EQUAL】で三峰の物語は一端幕を引いていたのだった。それゆえに「ダメージが少ない」と慢心していたのだけど、やっぱり痛いもんは痛かったな。
・デュラス『モデラート・カンタービレ』を読み終えた。綴られた一つ一つの出来事自体は日常的な出来事でしかないんだけど、それらの出来事が「見知らぬ男女の情痴殺人事件」のレンズを通すことで非常にエロチックな空間へと変質されている。読んでいて非常に楽しい散文。かなり好き。あと本文があえて明示していない部分(アンヌの夫の有無とか、ショーヴァンの細かい素性とか)もこのエロチックな雰囲気をより増している。語られぬものが漂わせるエロス。かなり好き。カミュ『異邦人』やブランショ『死の宣告』に匹敵するみたいな批評は正直よくわかんなかった(ついでに某評論家さんたちの「必読書150」にこれが挙げられているのもよくわかんなかった。確かにめちゃくちゃ面白いけど、言うほど「必読」か?)。カミュやブランショに並べてるのは、複合過去が小説の文体として採用されるようになったことが示すような、また「大きな物語」から「小さな物語」への移行が示すような「語り手にとっての経験的な出来事」が小説の主題になりえてくるようになった時代の名作として位置づけられる、ってことでいいのかな? それと「日常」の隙間から漂うエロティシズムへの目配せは、第三の新人うちのいくらかの作家にも共通するように思う(吉行はこれに比べたらやや露骨だけど、わりと庄野潤三とかもこんなイメージがある。まだ読んだことはないが島尾敏雄とかももしかしたらこんな感じ?)