「石膏マスク」の女事務員は海豹を買いたがる。
例えば、三日目の午後、僕らは動物園について屈託のない話をしていた。 「私は動物の中で海豹を一番好きなのよ」と女事務員がいった。「あれは勤勉でしっかりした感じだわ。いつも鋭い呼吸音を立てて泳ぎまわっているでしょ。威厳があるわ」 「ぐったり疲れて陽に乾いている海豹には威厳はないよ」 「あなたはオットセイとまちがえたんでしょう」と自信にみちて女事務員はいった。「私はお金ができたら海豹一頭と、プールを一つ買うわ」
大江健三郎「石膏マスク」『大江健三郎全小説』(講談社)p.66
お金があったらなにをしたいかという会話は「奇妙な仕事」にも共通していて、女子学生は火山を見に行くと、僕は「仔犬を買おうかな」「雑種のとてもけちな赤犬を買うよ。その犬はね、一五〇匹の犬の怨みを全身に背負うということになるんだ。顔が歪むほど僻んだ厭な犬になるだろうな」(p.16)と言う。わたしはお金があったら青山ブックセンターが欲しい。青山ブックセンターに置いてあるすべての本が欲しいのはとうぜんのこととして、青山ブックセンターという概念そのものが欲しい。
青カビ系のチーズとミモレットとカマンベールとチェダーを買ってきてひそやかなチーズパーティーを執りおこなった。ロゼワインとシードルで味覚を調整しながら食べすすめていて、カビはカビでもからすぎたりまろやかすぎたりするとくさみがうまく鼻に抜けず、カビ界もなかなか奥が深いのだなあと、気に入ったダナブルーばかりをつまみながら考えていた。
ダナブルー (Danablu) は、デンマーク産のブルーチーズ。非加熱非圧縮。起源は1910年代で、アメリカを主要な輸出のターゲットとし、製法はロックフォールを模倣することにより生産が開始された。名前はダニッシュ・ブルー (Danish Blue) を略したもの。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/ダナブルー)
パーティーついでに十年来の積読であった『チーズはどこへ消えた?』をアルコールでホワホワした頭で読んだ。この本におけるチーズとは、
私たちが人生で求めるもの、つまり、仕事、家族や恋人、お金、大きな家、自由、健康、人に認められること、心の平安、さらにはジョギングやゴルフでもいいのだが、そういうものを象徴している。
スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』(扶桑社)p.6
とのことで、つまりチーズはただの喩えであり、チーズそのものの話ではなかった。ビジネス寓話的なこの物語は、過去にばかり執着して変化を恐れていればあたらしいチーズを手に入れることはできないと教えてくれるわけだけれども、チーズそのものの味わいや香りでいっぱいのいまのわたしにすれば、そんなつまらない人生の教訓にゆたかなチーズを使わないでほしいと怒りたいほどだった。この横暴な思考回路はたしょうアルコールのせいなのだろうけれども、プルーストの比喩の美学を読んだあとだと、あらゆる比喩表現に身構えてしまうようになっていた。その二者はいかなる想像力に結びつけられているのだろうか、そして喩えがかけた橋はいかなる印象を喚起するのだろうか。
私も、信じるだけでいいのかもしれないな、と私は息苦しさをまぎらわすために考えた。あの事件は起らなかった。私は加害者ではなかったし、私は裏切りもしないし卑劣でもなかった、私は平穏な日常を生きて来たのだ。その考えは軽いおびえをともなうほどすばやく私の心に定着し執拗に私をさそいこむ。なんという簡単さだろう、と私は思った。私には自分が長い間私をくるみこんでいた深い霧のような観念からためらいなく脱けでてしまえるとさえ感じられて来るのだった。あの事件の記憶になぜ私だけ執着しているのだろう。
大江健三郎「偽証の時」『大江健三郎全小説』(講談社)p.98
「偽証の時」を読むと、大人ってほんとうにどうしようもないなあと思う。自分に都合よく記憶を改竄して、まるでそれがほんとうであるかのように振る舞い、他人を思いやるきもちなんてものはないのが大人だというなら、わたしはずっと子どもでよかった。さけるチーズをさかずに食べるのが大人だ。わたしは子どもだからまだできるかぎり細かくさく。さく楽しさを捨てられるほどに人生を達観してはいなかった。ぎゃくに自分も大人なんだなあと感じるできごともあった。それはコメダ珈琲でアイスのウインナーコーヒーを飲んでいた朝に、ストローの先が赤く染まっているのを見たときだった。大人の女性って感じだ、とそれを見た瞬間に思った。大人の女性の飲んだマグカップやストローは、ひとそれぞれの赤っぽかったりピンクっぽかったりの色で縁取られている。それに憧れていたわけではないのだけれど、わたしもそっち側になったんだと思う。スタッフのかたがわたしのいた席を片すときには、漠然とこの席には女性が座っていたんだと思いこむだろうというところまで想像した。口紅ごときで大人を感じていることそれじたいが子どもじみていると言われれば言いかえすことはできないのだけれど。
先頭車両の四人がけの座席の、前から二番目に腰かけた。車内には立っているひともちらほらいるくらいの混みぐあいだ。つぎの駅についたとき、わたしの左の左のひとが下車するそぶりを見せた。だれかが降りるとなったとき、その空きに座るひとはなんとなく定められているというか、暗黙の了解でつぎ座るひとを乗客は共有している。だからちょうどかれの目の前に立っていた薄ピンクのカーディガンを羽織った彼女が座るものかとてっきり思っていたし、そのまま座ろうと動きだした彼女がおばちゃんの突撃によって座るのを阻まれたのは驚くことだった。おばちゃんはどこからやってきたのかもしらないけれど、ものすごいスピードで座ろうとしていた彼女を跳ね除けようとし、とはいえ座ろうと動きだしはじめたからだを方向転換するのもむずかしく、彼女はおばちゃんを押しのけるかたちで着席した。おばちゃんは「はあ、混みすぎ」と彼女に聞こえるような大下座なため息をつき、なぜかわたしの前に立った。若いのに老人に席を譲らず呑気に本を読んでいるなんて、と怒られるのではないかと内心ひやひやしていた。それにわたしは終点まで降りないから、待機するならべつのひとの前のほうがいいと助言もしたかった。つぎの駅で、わたしの向かいに座るひとが降りて、そこにも座ろうとするひとがいたけれども、今度こそはとおばちゃんはそのひとをからだを捻って押しのけ、「すみませんねえ」と謝るようなそぶりで手を合わせながらも、その顔には勝ち誇った笑みが浮かべられ、座ろうとしていたひとが若かったのもあってその笑みはとても意地悪なものに見えた。その笑みを見たときの押しのけられたひとは、眉をハの字に曲げ、はあ、といかにも困ったときの定型ともいえる表情で後ずさった。平日の電車ではなかなか見られない光景だった。
アルバイトからの帰り道、改札を出たすこしひらけたところに、わたしの腿くらいまでの身長の男の子がウィルキンソンのペットボトルを咥えて歩いていた。飲み口はちいさな口にすっぽり覆われていた。男の子の口は皮膚がうすいのか、飲み口のかたちをはっきりと浮き出させていた。男の子の見つめる十メートルほどさきに、全身黒の父親のみえる人物がベビーカーを押していて、はやくー、と手招きしていた。空っぽの抱っこ紐が絡みついているのを見るに、ウィルキンソンの男の子には弟か妹がいるのだろう。あんなに小さいのにあの強炭酸が飲めるのはすごいことだよなあと、改札を通りぬけて電車に入った瞬間にはたと思う。まだ炭酸がさわやかではなく痛みとして捉えられる年ごろではないのだろうか、早熟な子どももいるものだ。