先日、映画「君を愛したひとりの僕へ」を見たので、読みかけだった「僕が君の名前を呼ぶから」を読了した(「僕が愛したすべての君へ」と「君を愛したひとりの僕へ」の小説版も読了済)。
それぞれ同じ世界観で描かれているにも関わらず、それぞれの作品で結論づけられる「愛」の形が違っているのが印象的で、よかった。同じシリーズだとそういう大きなテーマ的なものは統一される傾向があり、それはそれで好きなんだけど、違うのは違うので好き。なんでも好きなのかもしれない。
私はこの3作品を読んで、今まで自分が持っていた「愛」、主に「恋愛」という概念に変化があったのを感じた。こういう、自分の今までの価値観を大きく塗り替えてくる作品というのは時々ある。そしてそれは、作品の巧拙や好みとはまったく別ものだったりする。
※ 先に書いておくと、今からその例として挙げる作品が拙いとか、好きじゃないとかそういうことではない。
主に私の「愛」、主に「恋愛」に関わる価値観を大きく変えた作品がいくつかあるので、ここにメモしておく。もっとちゃんとまとまったらこの記事は削除して別所にまとめるかもしれないし、まとめないかもしれない。
君を愛したひとりの僕へ(乙野四方字)
3作品中、もっとも影響があったもの。恋愛感情というものは想いあっていることが完成形だと思っていたが、そうではないんじゃないか? と思うきっかけになった。というよりも、そもそも「愛」はその全てが「誰かが誰かを思う気持ち」でしかなく、相手からの感情というものは全く無関係なのではないか? と思うようになった。
異常者の愛(千田大輔)
こと創作物においてはいわゆるヤンデレ、ストーカー的な愛というものが嗜好にあっていたことがあるが、それが駄目になったきっかけ。他人から異常な好意をぶつけられるのは迷惑だ、という当たり前のことを当たり前に思うようになった。創作物でも。
ひめちゃんは重い女(花束葬式)
序盤は同性愛者を主役にしたラブコメディの様相をしているが、ラストに向かうにつれてその感情と真摯に向き合い、それぞれの「愛」の形を確かにしていく。この単語があっているのかちょっと自信がないが、同性愛だけでなく、いわゆるセクシャルマイノリティそのものにも視点が向けられていて、とても考えさせられた。
最近読んだだけでもこの3つがある。そう思うともっと前に私のこの感覚の「原点」になるような物語もあるような気がするので、そのうち思い出したい。