自分宮城出身宮城在住の民なのですが、3.11当時は小3だったんですね
春休みも目前に迫った3学期終盤、家で何気なく過ごしてたらあの3.11の猛威に見舞われました
信じられないぐらい大きな揺れ、地面が割れる音、頼れるはずの大人がパニックに陥って長い揺れの最中誰も頼れなかったこと、もうどうすれば良いのか分からなくてずっと泣いていました
しかも当時住んでいた家がなかなかに年季が入ったハウスだったので、津波の被害はなかったものの全壊になってしまい避難所でしばらくの間過ごしていました
避難所にはよく見知った近所の友だちがいて、だいぶ心が和らいだのを覚えてます、子どもの自分には友だちがそばにいるというだけでかなり心の支えでした
震災直後はもちろん友だちと遊ぶとかそういうことは全く考えられなかったんですけど、少し落ち着いてからはボロボロになった家から無理を言ってDSi(なつかしいね)を父に取ってきてもらい、それを発電機に繋がったコンセントで充電しようとして大人にしこたま叱られたりしていました そりゃそうだ
支援物資も届いたのですが、民間からの物は多分古着であろうクタクタの服や知らないメーカーのあんまり美味しくない謎輸入菓子、それから大量の辛ラーメンなど、今思えば避難所に届けられても微妙な物ばかりだったと思います……支援物資の質は3.11から重視されるようになったと思うのでしょうがないんですが
そこからさらにいろんなことがあり現在の穏やかな日常に至りますが、今も地震や津波の映像を見ると胸がざわつきます……能登半島地震で辛く苦しい思いをしている方々が早く穏やかな日常を送れるようになることを切に願います