『リア王』を観た&読んだ

夏の午後
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年末にNTL「リア王」を観た。年明け一冊目の読書はシェイクスピア語り直しシリーズの『ダンバー メディア王の悲劇』だった。リア王が現代のメディア王として描かれている。原作を読んで芝居を観てさらに現代版を読むと、いろいろな角度から作品を味わえて面白い。すごく贅沢な体験だった。

「リア王」は四大悲劇の一つとして評価されているけど、悲劇は喜劇よりも人生を強く深く感じる。一年の始まりと終わりである年末年始は自然と過去を振り返ったり未来について考えたりするので、悲劇と相性がよかった。

これはNTLの他の作品でも思ったけど、役者はなんであんなに長い台詞を覚えていられるんだろう。芝居を観るとまずそこに圧倒されて、賞賛を通り越しておののいてしまう。上演期間中はほぼ毎日それを繰り返すのも信じられない。特にイアン・マッケランは実際にリアの年齢に近かったこともあって、幻覚を見たり自身をコントロールできない状態に苦悶したり、演技だとわかっていても本物の老いは彼にもあるはずで、演技の迫力もあいまって身体が心配になるくらい強烈にリア王だった。カーテンコールでの顔つきが芝居中と全然違って、それを見たら演技の凄まじさがよくわかってなぜか涙が出た。

やっぱり道化って賢いな。セリフに役者の声がのっているとわかりやすくそれを感じる。ユーモアのセンスがある人は頭がいい。『ダンバー』の解説で「世界はわがホスピス。初めて聞きましたな」という道化のセリフは『ウィンザーの陽気な女房たち』の「世界はわが牡蠣だ(The world's mine oyster)」を踏まえていると指摘があり、語り直しの楽しさはこういう他作品にも言及できるところにあるなーと思った。私は「All the world’s a stage」を連想した、『お気に召すまま』っていうか千年メドレーのほうを……。

王の好きな台詞:

"When we are born, we cry that we are come to this great stage of fools"

事態がただ悪くなっていくだけならページをめくってもつまらないが、リア王は自分を顧みてコーディリアと心を通わせる瞬間がやってくる。

『ダンバー』の作者が「不条理性と悲劇は同じものではない。(略)なにもかも無意味で無慈悲に悲惨なら、悲劇にはならない」とインタビューで語っていたことが解説に書かれていた。悲しい出来事だけ書き連ねたら悲劇になるかというと全然そんなことはない。この世が great stage of fools だとしたら、じゃあ人生ってどんな人が主演でも悲劇ですよね、と思う。それは決して悲しいことじゃなくてすごく勇気づけられることだ、少なくとも私にとっては。

@natsuno_gogo
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