「傷を愛せるか」/語ること

ホシガラス
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今年初の読了は宮地尚子著「傷を愛せるか」(ちくま文庫)でした。痛みとまなざしの縁を近付いたり、遠ざかったりしながら歩いているような本で、最初は鋭く力の入った文章だったものの、途中から少し書きぶりが柔らかくなっていくように感じた。これは何か心境の変化でもあったのだろうか、と興味深く読んでいたが、人間いつでも肩肘を張っているわけにはいかないし、その時々の心境で書き方が変わることはよくある。また、書いていくうちに変わっていくこともある。

以前、この本についてお手紙を頂いたことがある。筆者は淡々と物事を記しているが、読者である自分の中の深い悲しみを抉り出される、ということだった。

その感覚はよく分かる。私の場合は多分、無力感と罪悪感、感情の底にいる人のそばにただ立っていたこと、喪失。そのたとえようもない空白を思い出すからかもしれない。

 

去年から、自分の内側にあるものを取り出そうとして気付いたことがある。

それそのものに触れて語ること、過去を取り出すこと、見たものを過不足なく、慎重に書くことは、想像していたよりもずっと難しい。

私が書きたいのは日記ではない。日記ならば、自分のためにどのようにも書ける。どのように書いても良いものだからだ。けれど、外に向かって文章を書く時、事実を引き伸ばし、あるいは短く切り貼りし、ともすればエンターテイメント的に書いてしまうことで損なわれるものの多さに、時折愕然としてしまう。過去は脚色され、磨かれ、展示されるものになると、自分でさえそのようだったと錯覚してしまう。私は書くことで自分が救われたい訳ではない。ただそれがあったということだけを書きたい。

一方で、誰かの目を通して読まれるものは、一度書いてしまえば、自分の中で漣のように繰り返される反芻と内省に、ある種の線引きをされるような感覚がある。海原が、波の出るプールになってしまう。

もしかしたら、語るべきことをまだ区切ることなく語りたい時に、外に向かって語るべきではないのかもしれない。

けれど、あんまりにも時間が経ち、事実が遠くなってしまい、その積層が途方もない厚みを持った時、その縁をなぞるように歩くことしかできなくなってしまうのかもしれないとも思う。そういう時、あるいは人は物語と現実を混ぜて、そこに本当のことを紛れ込ませることでしか、書けないものがあるのかもしれない。

そこに存在した過去を書く時、事実が自分を傷付け、新たな喪失を体験し、己という存在が欠かれる苦痛、物事への信頼を失う耐え難さを思い出す。どれほど時間をかけてもそれを言葉にして取り出し語ることは難しい。己という土地の中では「聖別」も「抹消」も「選別」も「復旧」も容易なことではない。

ただ、同時に失われたものばかりではないことも確かに思い出す。誰かの言葉によって生かされたこと、今誰かのそばにいられること。語る言葉を持つこと。誰かに伝えられ、そして伝えて貰えることについて。