人の話を聞いたり、あるいは読んだりしていると、「この人が言っているのだから大丈夫だろう」と判断してしまうことがある。その人の普段の言葉や行いを見て、多分大丈夫だろう、と思ってしまう。
例えばSNS上で何かの意見を見つけ、それを拡散するべきかどうか判断しかねる時、思考を止め、この人が発言/拡散しているから大丈夫だと思ってしまう自分がどこかにいる。
先日、組織で疎外されて去ってしまった人と、その周囲の反応の話をしていた時、「皆が〇〇さんをお手本にできれば良いのにね」と言われ、上手く言葉を返せなかった。
実際名指しされた人はとても素晴らしい方だ。それでも、100%瑕疵がない訳ではない。全ての人と同じように。
誰もが間違う可能性がある。それをいつでも受け入れる必要があることを思う。受け入れて、自分の外側に安心を委託しないこと、倫理や判断を預けないこと、そしてそれを続けていく必要が、少なくとも私自身にはある。相手に信頼を寄せることと、安心を相手に丸ごと預けることは違う。
解決のできない、できていない問題が身近にも世界にも山ほどある以上、全ての問題を知って語ることは現実的ではないし、判断に迷う事柄を考え続けることには途方もない労力がいる。知らないことを学び、情報を精査し続けることは疲れるし、知り得なかった考え方やものの見方がある以上、間違いに向かって突き進んでしまうことだって必ずある。間違ったことを言ってしまって取り返しのつかないこともある。言葉にすることにはいつでも勇気がいる。
それでも誰かに思考と安心を預けた時、自分の中で確実に切り崩される感覚がある。これまであたかも自分で判断したようなふりをして、それをふりとも思わないことで失われたものがある。自分の愚かさに途方に暮れてしまうが、誰かが考えてくれるだろうと放り投げてしまった己の無関心と無言が、誰かや何かを害する可能性がある限り、安心を委託することよりも、何かを失わない/何かが失われない選択をしたい。ひどいニュースにすぐにぐったりしてしまうから、いつでもは難しいとしても、他者も自分も損なわれる方がずっと怖い。