届く言葉

ホシガラス
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人生の3分の2以上、「難しいこと考えてるね」「なに言っているか分かんない」「理解できない」と言われ、あしらわれ続けてきたせいか、つい最近まで私の言葉には価値がなく、誰かに届くことはないのだろうということは、ひとつの諦め、というか、もはや不文律のようになっていた。

それは勿論、興味関心の方向性が違うコミュニティが合わなかっただとか、私の話し方がとてつもなくヘナヘナだったり等々、原因はとにかく数えきれないほどあり、その改善に人生の大半、というより、今でもかなりのリソースを費やしている。

昔ほどではないにせよ、伝わらないことがいつもうっすら怖かった。また理解できないからと蔑まれたり、軽んじられるのではないかという怖さはずっと付きまとっていて、これだけ文章をあちこちに出しておきながら一体何を言っているのかという感じではあるが、何を書いて、あるいは話していても、いつでも背中にべったりとくっついていた。

けれど、最近仕事でも私生活でも様々な人と話をして、もしかしたらそうではないのかもしれないと思い始めている。

私の家族、友人、同僚たちは、思慮深く、優しい人たちだから注意深く話を聞いてくれていて、だから辛うじて伝わっているのだと思っていたが、それだけではないのではないのかもしれない。私の言葉は誰かに届いていて、ちゃんと誰かを助けたり、喜ばせたりしているのかもしれない。言葉が届いているから私が大切にしたいと思う人たちは今でも側に居てくれるのかもしれない。

そう気付いた時、これまでの人生で自分が受け取ってきた言葉、私に投げかけられた優しい祈りや願い、眠れない夜に友達と映画を観ながら交わした言葉や煙草の匂い、貰った小さなマオリのお守りのことや、抱きしめた身体の温かさ、きっとまた会おうという約束、そういった、ここ10年くらいで貰ったものを本当に冗談みたいに次から次へと思い出して言葉を失ってしまった。それらは決して一方的な言葉のやり取り、伝わらない言葉からは生まれないものだからだ。

これまで貰った優しさや思いやり、それを心から受け取るのにこんなに時間がかかってしまった。それが申し訳なくて、どうしようもないくらいありがたくて、蹲ってしまいたいような泣きたいような気持ちになっている。

という話を友人にしたら、友人はようやく気付いたの!と笑っていた。あなた自身にもあなたの言葉にも価値があり、私はずっとそう思ってきたし、あなたが気付いてくれて良かったと。ついでにいまさら!と3回くらい言われた。本当にその通りすぎて言葉もない。

そんな訳で、言葉が届いていることに気付いていなかったのはどうやら私だけだったのかもしれない、と今はなんとも間抜けな話ではあるが、これまでも今も居てくれる人々の存在が、言葉が伝わらないことへの恐れを少しずつ拭い去ってくれている。