昔、どうしても受け入れ難かった人のことを指して違う世界の人間だ、と言った時、友人に「同じ世界の人だよ」ときっぱり言われたことがある。大学生の頃だ。
人は互いに決して理解することはできないと思うようになったのはいつ頃だったのだろうか。それを言語として表象できるようになるよりもずっと前から、私は理解/不理解、需要と拒絶に頭を悩ませていたような気がする。
本当に長い間、さまざまな人が理解できない、あるいは理解されない(と思っていた)ことにほとほと疲れていて、確か嫌なことがあったことも相まってそのように言ったように思うが、実際のところは朧げだ。
だが、友人の言葉は私に反発心を抱かせないほど真理を突いているように思え、思わずはっとしたことを覚えている。
理解するためには相手が同じ地平の、違う場所に立っていることを理解しなければならない。その意味で、私は本当に相手を理解しようとしたことがあったか。あるいは理解されるよう言葉を尽くしたことがあったか。冷静だったか。最初から拒絶していなかったか。尊重や敬意はそこにあったか。
私は今でも理解できない、とこぼしてしまうことがある。差別、諍い、争い、悪意。そういったものを前にすると、無条件に、無責任に、遠くに突き放してしまいたくなる。しかし話せば理解できることは確かにある。それはともすれば私の規範に相手を収めているだけかもしれないが、少しずつ歩み寄るために対話は必要だ。
だからこの先も別の世界の人間だとは言わない。ただ話を聞きたい。