美術館とヘトヘト

ホシガラス
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物語に対する視野が広い人を見ていると、大抵驚くほど多くの作品に触れている。映画、漫画、本、音楽。その他も色々。

沢山のものに接したいし、観たいと常々思っている。けれど映像作品や絵画など、一本の話、一枚の絵にあらゆるものが圧縮されているものはどうしても、鑑賞後にどっと疲れてしまうので、なかなか触れられないジレンマがある。美術館はヘトヘトの代名詞と言って良い。

美術館でのヘトヘトも様々な種類がある。絵画の場合が一番ヘトヘト度が強い。絵画そのものの質感と存在感、色彩に圧倒され続けるというのもあるが、絵を見ることで生じる己との対話がどんどん深いところに落ちていくからかもしれない。意図せず転がり落ちたものをもう一度現実に引き上げるのは苦労する。

立体は気軽に楽しんで観られる方だが、視点を分散させられるという点は大きい。立体は投げかけられた光をコントロールできない。私たちと同じように外からの変化を受け止めるしかなく、少しだけ世界に対して開かれている気がする。対話の窓口があるような感覚がある。

絵はそこから動かないし、ある程度近付いたり遠ざかったりすれど、こちらも面に釘付けになってしまう。平面の中の陰影も光も色、筆使いや描かれた事象は観察と自己との対話によって受け取らなくてはならない。ひたすら集中して、はっと目覚めて、ふらふらと次の絵に向かう。立体はそのくびきから少し外れている。と、思うのは、私が立体に対して造詣が深くないからかもしれない。絵画には触れ続けてきたし、実際に描くこともあるから、何となく焦点が合いやすいという可能性はある。ただ、立体でもある特定方向から向かい合うもの(例えば教会の内部のような建物)は少しヘトヘトが強い。

映像作品も準ヘトヘトの代名詞という感じで、音、言葉、息遣い、展開に没頭しすぎてしまってしばらくはぼんやりしてしまう。レイトショーで観に行くことが多いので、大抵ぼんやりしすぎて終電で乗り過ごし、深夜に見知らぬ駅で途方に暮れる事が数限りなくある。美術館などは閉館時間が早いので、何度乗り過ごしても家に帰れるので助かる。

こういうヘトヘト、つまり、没頭しすぎた結果の疲労にどうやって付き合えば良いのか未だに分からない。ある程度切り離し、己の外側に置けば何とかなるのだろうか。けれど、行くからにはやはり全身で受け止めたい。折衷案が見えない。ヘトヘトとの付き合いはこれからも続く。