文章だけのことではないけれど、決して人に話さないことがある。
それは友人でも、家族でも、この世のあらゆる他者に言えることで、これについては人に話さないと決めている。
もしかしたらそれは語れない、ということと同義なのでは?とも考えたが、どうやら違う。確かに話すことは難しい。けれど、話したくないというところが正しい気がしている。
語れないことと語らないことは似ているようで違う。語らないと決めるプロセスには明確に自分の意志が介在する。
話さない理由はいくつかある。それが理解されないだろうという諦め、誰も同じものを見ることも感じることもできない以上、出来事を他者によって測られたくないという感情、そして、語ることによって語られた相手を困らせたり悲しませたりしたくない、ということに尽きる。もしかしたら話を聞く方は何だそんなものか、と思うかもしれないが、それを決めるのは私以外の誰かではない。
これは他者との信頼の問題ではないのだと思う。ただ語らない。分かち合わない。自分の感情の置き所は自分が決める。というより、自分しか決められない。
けれど、喉に詰まったものを吐き出さないのは当然辛い。話した方が楽になるのかもしれない。それでも話さないことを選んでいる。人生のあらゆることはやたら混線しているし、一つ糸を解くことすら難しい。自分ですら一から十まで覚えていないことを、一体どこから話せば良いのかとぼんやりとした怒りすら覚えてしまう。これはおそらく、過去の全てを語ることは決してできないのだということへの怒りだ。点で語られることには欠落があるが、語るということは無数の点と点を追うことに似ているから、地図を広げるようには決して語れない。
今のところ、死ぬまで話さないのかは分からない。いつか話せると思うのかもしれないが、少なくともまだ話す意志がないし、話さない。
きっと、私の思い描く人たちは必ず話を聞いてくれるだろうと思う。理解できなくても測らず、気持ちを分かち合おうとしてくれるだろうとも思う。話す私の手をただ握っていてくれるだろう。けれど、そうだとしても分かち合いたくない。少なくとも今は、自分だけがこれと一緒に居ることを決めている。