弱い人間

nekomimimi
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公開:2024/10/15

昔、自分は数学ばかりをやっていたような気がする。新しいコンテンツに触れ続けていることや、それをどんどん理解できることが楽しかった。でも「好きなもの」だったかと言われると違うような気がする。実際のところ、数学ができることで自分は他人にほめてほしい気持ちがあった気がする。例えば、自習の計算プリントを一番に終わらせて、教卓においてある答えへ向かうとか、テストでも早く答えて答案を伏せるとか、そういう誰が見てもわかるようなアピールに執着していた気がする。自分にとっての数学や勉強は承認欲求や自己顕示欲?みたいなものが大きかったのだろうと思う。

振り返ってみれば自分は弱い人間なんだと思う。今は少し落ち着いたと思っているけれど、昔から暗いところやお化け屋敷は苦手だし、人前での発表では声も指先も震えていたような気がする。だからこそ、安心したいとかこころを満たされたいとかそういうことに固執していたのかなと思う。結局のところ、そういうものは人間関係から得るものなんだろう。でも相手を考えない行動で人を傷つけた過去や、でもその中で関わり方の「正解」が一向に見つからないこと、そんなこんなで人と話す一歩が怖いと感じる。やはり弱い人間だからなんだろう。

でも、勉強がある程度できることで得られた人間関係は「教える側と教えられる側」で、放課後に○○に遊びに行くだとか、趣味の話で盛り上がるだとかそういう友達がいたかというと居なくて、そういう話をしている人がうらやましいなと思っていた。その手段でこころが満たされるには、多分テストで良い点を取って「えっへん!」ってして周りからほめられることくらいでしか満たされないわけで、でもそんな現実なんてないんだろうと思う。

おれは能力のある人間が嫌いだ。例えば今、もうすでに成人している自分たちには小学校、中学校のテストは簡単かもしれない。じゃあ当時の自分が同じように解けただろうか。仮に解けたとして、当時のテストの平均点はどうだっただろうか、その時5教科で400点を超える人数の割合はどれくらいだっただろうか。そんなはずなのに、大人は自分の今の物差しで人を測って「こんな問題も解けないのか」とか言ったりするわけだ。実際その人にとって簡単なのは事実だし、自分がそのような人間に認められる点数=満点を取れないことがだめなんだろう。しかし人は完璧ではないわけでどこかでもったいないミスは必ずする。勉強でほめられるのはあまりにもハードルが高いものだった。

確かにそのことを大人に言えば、あるいは頑張ったところをアピールすれば分ってくれて、ほめてくれるのかもしれない。でもその人にとっては今の自分の物差しが本心で、その言葉は本物じゃない訳で。勉強ができることでこころが満たされないことや、当時の自分には勉強くらいしかなく、将来そのような人間になることが嫌だったことから、勉強そのものも好きだと今では言えない。

やはりそういうものは人間関係から得られるものなんだろう。じゃあどうしたらいいのか。そういえば、自分からではなく、自然に出来た人間関係があった。自分がその一歩を怖いと思っている間に、話しかけてくれたり、遊んでくれたり、そういった優しさに自分は生かされていたのだろうと思う。優しい人間、自分を持つ人間、そういう人に元気をもらいながら、そういった人間に憧れて生きてきたんだなと思う。だから自分もそうなれたら変わるのかもしれない。でも偽りのそれでは意味がなくて、自然に本心で優しい人間になれたらと思う。今の自分がそうなれているかは分からない。考える度に自分がどうしようもなくだめな人間だと思う。いつかそうなれたら、人間関係の一歩が踏み出せるようになれたらそんな未来はあるのだろうか。