「他力本願」「果報は寝て待て」というふたつの言葉が好きだ。
前者は「他力というは如来の本願力なり」という親鸞の言葉からきている。転じて「他人の力をあてにする」といった意味でも使われる。そういうと、どうも怠け者のようだけど、そうだろうか。人は多くの他者やモノに囲まれていて、ひとりでは何もできないのだし、自分の意思ですべてが決まるわけでもないし、だから当然思うようにいかないこともある。努力したうえで、あとは他力だと構えたほうが気持ちも楽だ。他力というのはつまり自分以外の何か目に見えない糸の網目のようなもので、そこに導かれることは運のようなものだけど、やはりその端緒を掴んでおくことは必要で、それが普段の努力や心構えなのだろう。
後者も仏教用語である。「果報」の「果」というのは、過去の良い行いによって自分に返ってくる何かのことだ。しかし、必ず返ってくるかどうかなどはわからない。そもそも仏教的にはその行いをしたのは前世だったりするわけだから、良い行いをしたかどうかも自分ではわからない。もちろん今できることはしないといけない。自分としてできることをやったなら、あとは寝て待つくらいの気持ちでいい。他力とも繋がる話だけど、最後の最後はもう自分の意思だけで決まることでもない。もし決まるならそれは独善だし奢りだろう。
ときおり思うのだけど、「自分」というものに拘泥しすぎて、やるべきことをせずに動きすぎる人がいる。動かず粛々と修練していれば、見えてなくても糸の端緒は掴めるはずだと思う。あとはやってくるのを待てばいい。糸の端緒を掴んでないのに動いてもそこに求めている網目はない。世界というのは複雑に折り重なった網目のようなもので、端緒を掴んでないのに動いても網目からするすると抜けてしまう。