年を忘れると書いて忘年。忘年会というのは1年の苦労を忘れる宴会というものらしい。忘年会について、ここ2日間バイト先でせっせとお酒を運んでる時に気になった。大体のお客さんが「今年もお疲れ様です」と、グラスを鳴らしていた。調べてみて「苦労って忘れるものじゃなくないか?」と思った。なんの苦労もしていないガキである私が言うことではないけど。だって、苦労は労う必要はあれど、忘れるってできなくないか。「苦しいこと」というのは自分に跡として残ったものだと思う。その自分に傷跡が残るほど苦しいものを簡単に忘れられるだろうか。無理だろう。
これは私が根に持つタイプだからかもしれない。表では何とも思ってないフリをしているけど、普通に根に持つし、溜まりに溜まったら「あ、もうどうでもいいわ」とプッツリ切れてしまう。まぁ近年そんな溜まることもないけど。環境に恵まれているのと、些細なことは気にしなくなったからだ。器が広いとかではなく、自分にも他者にも期待していないだけなので良いこととは言えない。他者に自分をわかってもらいたいと考えることが傲慢だと思うようになってしまった。まぁ、わかってもらえたら嬉しいけど。「人は人を理解することはできない」が持論になってしまったことも大きな要因であると思う。相互不理解が前提だから、人は言葉や非言語を通してわかり合おうとするんじゃないだろうか。理解することはできないけど「理解できるようにする」とか「価値観の差を認めて出来るだけ寄り添えるようにする」姿勢が大事なんじゃないか。綺麗事だけど。そうあれたらいいな。
話が逸れてしまった。苦労なんて忘れられなくないか?という話をしていた。あとは忘れないでいる必要がある記憶もあるよなぁと思う。苦労の中にも、忘れてはいけない記憶はある。「教訓」であるとかね。
でもやっぱり忘れたい記憶もある。だから、忘年という形で、忘れたフリをみんなするのではないか。忘れられるとは考えられないから、忘れたフリ。忘れたフリでどうにかやり過ごす。といったことを私はしたことがある。
まぁこんなに馬鹿真面目に言葉に向き合ってきたけど、忘年会の本質は「年を忘れる」ことではないでしょう。多分。「苦労を労う」ことが本質だ。だから私の苦労忘れない方が良くね?という考えに対して「いや忘年会はそゆうのをするわけちゃうし……」というのが大きな感想だろう。全くもってその通りである。
忘れるにしろ、忘れないにしろ、みんなが、お互いが「苦しい傷跡」を労われると良いななんて思った。
それではみなさん1年間お疲れ様でした。1年間お世話になりました。来年も何卒よろしくお願いします。良いお年を。